2026年10月21日:他分野はホームズをどう扱ってきたか ゲーム理論 後編:プレイヤーから人物類型へ

シャーロッキアン日記

前編では、1944年のゲーム理論の古典が「最後の事件」のカンタベリーの場面をどう解いたかを読みました。フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンは、ホームズとモリアーティを、名前を入れ替えても成り立つ二人のプレイヤーとして扱いました。個性を捨てたからこそ、読み合いの構造を取り出して解くことができた、というのが前編の結論でした。

後編では、前編の冒頭で触れた小冊子、ディミトリオス・トマコス(Dimitrios Thomakos)の The Fiction to Action Decision Manual(2026年)に戻ります。こちらは1944年とは逆に、ホームズの個性そのものを意思決定の「原型」に据えています。同じホームズとモリアーティを使いながら、80年を隔てた二つの文献は正反対の方向に抽象化しているわけです。

F2A とはどんな文書か

まず書誌から確認しておきます。著者のトマコス氏は、アテネ大学(正式にはアテネ国立カポディストリアス大学)経営学科の応用計量経済学の教授で、専門は時系列予測や金融計量経済学です。この文書は、アテネ大学のサイバネティクス・人工知能研究室(CAIL)の「Occasional Monograph Series」の一冊として、アテネ大学出版局から2026年3月に公開されました。本文は25頁です。査読を経たものかどうかは、公開情報からは分かりませんでした。

研究室の書籍ページを見ると、同じ研究室は2025年から2026年にかけて、『ホメロス意思決定マニュアル』『アルゴナウティカ意思決定マニュアル』『プルタルコス的実践』など、古典や物語から意思決定の教訓を引き出す本を少なくとも9点刊行しています。この F2A も、その一連の仕事の一つと見るのが自然だと思います。

中身は次のような構成です。

  • 3人の原型:ホームズ(知の構築)、モリアーティ(力の数学)、フー・マンチュー(忍耐の主権)。それぞれに中心となる徳、色、元素が割り当てられています(ホームズはプルシャン・ブルーと「空気」)。
  • 7本の柱:知識、データ、狡知、隠密、力、神秘、内的平静と大胆さ。
  • 2つの次元:不確実な情報のもとで信念を更新する「推論の次元」と、リスクや自己同一性、行為の意味に向き合う「実存の次元」。
  • プルタルコスとの対応:7本の柱を『対比列伝』の人物の徳と対応づけます。研究室の紹介記事によれば、ホームズはソロン、モリアーティはカエサル、フー・マンチューはヌマに対応します。

研究室の紹介記事で、著者はこの枠組みが「ゲーム理論の教科書や経営コンサルティングのマニュアルではなく、犯罪小説の不朽の原型」から着想を得たものだと述べています。そして、原型は比喩ではなく、公理と定義と測定可能な活性化プロファイルを持つ、形式的に規定された認知の型である、とも書いています。

1944年との距離

前編を読んでくださった方は、「ゲーム理論の教科書ではなく」という一言に引っかかるかもしれません。ゲーム理論の教科書そのものに、80年前からホームズとモリアーティがいるからです。実際、F2A の参考文献には『ゲームの理論と経済行動』が挙がっています。しかし本文を通読しても、カンタベリーもドーヴァーも、ミニマックスも混合戦略も、一度も出てきません。参考文献は15点ありますが、本文中で番号によって出典が示されている箇所は見当たりませんでした。

それでも F2A には、前編の議論とよく似た部分があります。第4章の「再帰的推論の公理」がそれで、相手が自分の推論をどうモデル化しているかを、少なくとも2段以上モデル化せよ、というものです。著者はこれを「ホームズとモリアーティの力学」の特徴だとしています。

これは、モルゲンシュテルンが1928年に問題にした「彼は私がこう考えると考える」の連鎖と同じ問題意識です。ただし両者は同じではありません。モルゲンシュテルンが論じたのは終わりのない読み合いで、だからこそ解けないパラドクスになりました。F2A が求めているのは、有限の段数での読みです。また、1944年の古典が出した答え(読み合いを打ち切るために確率で選ぶ)とも、別の方向を向いています。F2A は、この同じ問題に取り組んだ古典的な系譜に触れないまま、自前の公理として提示しているのです。

推論の枠組み:アブダクションとベイズ推論

F2A の「推論の次元」は、観察、仮説の生成、ベイズ更新という三段階で組み立てられています。ここも背景となる理論を少し整理しておきます。

パースの「仮説」

アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースは、1878年の論文「演繹、帰納、仮説」で推論を三つに分けました。袋の豆の例が有名です。「この袋の豆はすべて白い」(規則)と「これらの豆はこの袋から出た」(事例)から「これらの豆は白い」(結果)を導くのが演繹。事例と結果から規則を導くのが帰納。規則と結果から「これらの豆はこの袋から出たのだろう」と事例を推し量るのが仮説です。この三つ目を、パースは後年の論考で「アブダクション」と呼ぶようになります。

ホームズの推理がこの「仮説」型、つまり観察された結果からそれを説明する事情を推し量る推論だという読み方は、記号論の分野で深められてきました。代表的なのが、トマス・A・シービオクとジーン・ユミカー=シービオクの『シャーロック・ホームズの記号論』と、ウンベルト・エーコとシービオクの編んだ論集『三人の記号』です。どちらも邦訳があります。

F2A もホームズの方法を「演繹ではなくアブダクション」と位置づけていて、ここは定説に沿っています。ただ、参考文献に挙げているのは1878年の論文で、この論文の用語はまだ「仮説」です。記号論の研究の蓄積には触れていません。

ベイズ更新

ベイズ更新は、証拠を得るたびに、ある仮説が正しい確率を見直していく手続きです。もとの見積もり(事前確率)に、「その仮説が正しいとしたら、この証拠がどれくらい出やすいか」(尤度)を掛け合わせて、新しい見積もり(事後確率)を得ます。統計学者ジョセフ・B・カデインは2009年の論文で、ホームズの格言の数々をベイズ推論の言葉で再構成してみせました。

F2A は、アブダクションで仮説の候補を出し、ベイズ更新で絞り込むという分業を組んでいます。そこにフー・マンチューの「相手が想定しない仮説を必ず候補に入れよ」と、モリアーティの「事前確率そのものを戦略的に設計せよ」が上乗せされます。発想としては面白いのですが、これらの「上乗せ」をどう測り、どう検証するのかは、本文からは読み取れませんでした。紹介記事が言う「測定可能な活性化プロファイル」も、具体的な測定の手順としては示されていません。

引用と人物像の精度

シャーロッキアンとして気になったのは、正典の扱いです。F2A は第1章から第3章の冒頭に正典からの引用を置いていて、確かめた限り、その文言は原文どおりでした(「バスカヴィル家の犬」「最後の事件」「ボヘミアの醜聞」)。一方で、本文中の引用には次のような点がありました。

  • 「第一級の数学者」:F2A は、ホームズがモリアーティを「a mathematician of the first order」と紹介したと、引用符つきで書いています。しかし正典60編を検索しても、この語句はありません。「最後の事件」にあるのは「第一級の頭脳」(a brain of the first order)と「おどろくべき数学の才能」(phenomenal mathematical faculty)で、F2A の語句はこの二つが混ざったものと思われます。
  • 「頭脳部屋」:ホームズの頭脳の屋根裏部屋のたとえ(『緋色の研究』)を使っていますが、『緋色の研究』は参考文献にありません。モリアーティの『小惑星の力学』(『恐怖の谷』)も同様です。
  • 「不可能なものを消去すれば」:『四つの署名』の有名な一節を、「真実」を「作業仮説」に置き換えた形で「ホームズ的認識原理」として掲げています。言い換えであることは読めば分かるので、それ自体を誤りとは言いませんが、出典は示されていません。

人物像についても一点だけ挙げます。F2A は意思決定の失敗の型を7つ挙げ、その一つを「マイクロフト病理」と名づけています。隠密を欠いた狡知、つまり、優れた分析者でありながら目立たずに動く手間を惜しみ、早すぎる露見によって自分の優位を損なう型だそうです。

正典のマイクロフトが行動を面倒がることは、「ギリシャ語通訳」でホームズ自身が語っています。けれども「最後の事件」では、ホームズとワトスンを駅へ運ぶ箱馬車の御者に扮していたのがマイクロフトでした。「ブルース・パーティントン型設計書」では、正体を伏せたまま英国政府そのものとも言える役割を担っています。「隠密を欠く」という性格づけがどの描写から導かれたのか、本文には説明がありません。少なくとも「最後の事件」の描写とは整合しにくいと思います。

フー・マンチューを「原型」にすること

もう一つ、どうしても触れておきたいのがフー・マンチューです。サックス・ローマーが1913年に生んだこの悪役は、当時の英国に広がっていた「黄禍論」、つまり中国人や東アジア人を脅威とみなす人種的な恐怖を体現した人物として、研究の上では位置づけられています。代表的な研究に、クリストファー・フレイリングの The Yellow Peril: Dr Fu Manchu & the Rise of Chinaphobia(2014年)があります。

F2A は、フー・マンチューを「忍耐と隠密と神秘による長期的な視野」の原型として、ホームズやモリアーティと並べています。けれども本文には、この人物像がどのような歴史的文脈で作られたかについての言及が見当たりません。人種化された悪役像を、その来歴を説明しないまま普遍的な意思決定の型として使うことには、私は慎重であるべきだと考えます。原型として抽象化すると、その原型がどう作られたかという歴史も一緒に消えてしまうからです。

二つの抽象化を並べてみる

ここまでの内容を、1944年の古典と並べて整理してみます。

ホームズとモリアーティの二つの抽象化
観点 モルゲンシュテルン/『ゲームの理論』(1928・1944) トマコス F2A(2026)
二人の扱い 知力を同等とみなされたプレイヤー。名前を入れ替えてもモデルは成り立つ 異なる徳を体現する人物類型。名前と人物像が枠組みを支えている
正典の使い方 一つの場面を抜き出し、選択肢と利得を固定する 複数の作品から名台詞と人物像を集める
検証可能性 仮定と利得表から誰でも解を計算し直せる。実際に後の研究者が批判している 公理と定義は示されるが、測定や検証の手順は示されない
先行研究とのつながり 経済学の均衡論と数学のミニマックス定理の系譜にはっきり位置する 参考文献はあるが、本文中での出典の指示がなく、系譜とのつながりが見えにくい
分野の中での位置 ゲーム理論の基礎文献の中の例題 大学研究室のモノグラフ・シリーズ。古典や物語を意思決定の訓練に転用する一連の著作の一つ

F2A に近いのは、むしろマリア・コニコヴァの『シャーロック・ホームズの思考術』(原著2013年)のような、ホームズを思考法の手本とする本の系譜だと思います。ただしコニコヴァが心理学の研究成果をホームズで説明しようとしたのに対し、F2A は複数の人物の長所を組み合わせる類型論を提案しています。同じ棚に並ぶ本でも、根拠の示し方は違います。

シャーロッキアン研究への示唆

最後に、前後編を通じて考えたことを三つにまとめておきます。

一つ目は、他分野が道具にしてきたのは、ホームズ一人よりも「ホームズ対モリアーティ」という関係だった、ということです。モルゲンシュテルンの読み合い、1944年の例題、そして F2A の再帰的推論の公理と、いずれも「推理する者どうしの相互作用」を取り出しています。名探偵の推理の模倣とは別に、こうした関係の抽出という受容の型がありそうです。もっとも、今回扱った文献はまだ少数なので、一般的な傾向と言い切るには、ほかの分野の例を集める必要があります。

二つ目は、抽象化には二つの向きがあり、そのどちらに対しても、正典の細部が物差しになる、ということです。1944年の古典はホームズの個性を捨ててプレイヤーにしました。F2A は個性を固定して類型にしました。前者が捨てたもの(ニューヘイヴン経由の逃走)や、後者が固定しすぎたもの(マイクロフトの御者姿)は、正典を精読すると見えてきます。延原訳では game の語彙が消えていることも、その一例でした。他分野がホームズを使うとき、その使い方の正否を判定するのではなく、何を取り出し何を捨てたのかを示すこと。それが、シャーロッキアンにできる貢献の一つだと私は考えます。

三つ目は、出典の確認です。他分野の文献は、正典を孫引きしたり、記憶で引いたりしがちです。「第一級の数学者」のような混成は、まさにその例でした。正典のどこに何が書いてあるかを確かめる作業は地味ですが、他分野の議論の足場を固めるうえで、シャーロッキアンが最も役に立てるところかもしれません。

結び:ホームズを説明したのか、ホームズで何かを説明したのか

今回の二つの文献は、どちらもホームズ「で」何かを説明しようとしたものでした。1944年の古典は読み合いの解き方を、2026年の小冊子は意思決定の心構えを説明しようとしました。ホームズ「を」説明しようとしたわけではありません。それでも、使われ方を正典に戻して点検すると、ホームズとモリアーティの対決そのものについて、新しい読み方が生まれます。カンタベリーで降りたホームズの判断を、私はこれまで以上に面白く読めるようになりました。

このシリーズでは、今後もほかの分野がホームズをどう扱ってきたかを取り上げていく予定です。

参考文献

正典

  • Arthur Conan Doyle, “The Final Problem,” “The Greek Interpreter,” The Memoirs of Sherlock Holmes; “The Bruce-Partington Plans,” His Last Bow; A Study in Scarlet; The Sign of the Four; The Valley of Fear. 英文は Project Gutenberg 版によります。
  • 延原謙訳 新潮文庫版。

検討の対象

ゲーム理論

  • John von Neumann and Oskar Morgenstern, Theory of Games and Economic Behavior, Princeton University Press, 1944(第3版 1953). 邦訳は前編を参照。
  • Oskar Morgenstern, Wirtschaftsprognose, Wien: Springer, 1928.

推論の理論

そのほか

  • Christopher Frayling, The Yellow Peril: Dr Fu Manchu & the Rise of Chinaphobia, Thames & Hudson, 2014.
  • マリア・コニコヴァ『シャーロック・ホームズの思考術』日暮雅通訳、早川書房、2014年(ハヤカワ文庫NF、2016年)。原著 Mastermind: How to Think Like Sherlock Holmes, 2013.
  • Sax Rohmer, The Mystery of Dr. Fu-Manchu, Methuen, 1913.

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