2026年9月24日:ホームズを読む心理学者たち——Didierjean & Gobet (2008) の周辺文献ガイド

シャーロッキアン日記

はじめに——一本の論文から広がる地図

先日の記事でDidierjean & Gobet(2008)“Sherlock Holmes – An Expert’s View of Expertise”(British Journal of Psychology, 99(1), 109–125, DOI: 10.1348/000712607X224469)を紹介しました。19世紀末から20世紀初頭に発表されたホームズ物語の場面が、当時の専門知識研究のなかで十分に扱われていなかった論点を照らし出す、という論文でした。

今回はその「前後左右」にある文献を6つの層に分けて案内します。論文が実際に参照した研究、著者フェルナン・ゴベ自身の関連研究、別分野からのアプローチ、そして一般読者向けの入口——文献の性格を区別しながら見ていきます。

同じ2008年に発表された姉妹記事

Didierjean, A., & Gobet, F.(2008). Can a 150-year-old British detective help modern cognitive psychology? The Psychologist.

これは本編論文と同じ2008年に、同じ著者コンビによって発表された、より短い一般向けの記事です。掲載誌はBritish Psychological Society(BPS)の機関誌『The Psychologist』で、抄録は本編論文を名指しし、「架空ながら卓越した専門家シャーロック・ホームズの目を通じて到達した成果を、最近の論文で評価した」という趣旨の書き出しから始まっています。本編の自己参照的な続編であることがここから確認できます。

なお、正式な掲載号・掲載頁、および連載上の位置づけ(心理学とフィクションを扱うシリーズの一編かどうか)については、現時点で確定的な情報源を確認できていません。Brunel大学リポジトリに登録されているのは著者稿(プレプリント)であり、その頁付けを刊行版の頁として扱うことは避けています。

論文が直接参照した研究

Didierjean & Gobet論文の議論は、いくつかの先行研究に直接依拠しています。

de Groot, A. D.(1946/1965). Thought and Choice in Chess. 1946年にオランダ語で刊行され、1965年にMouton社(ハーグ)から英訳版が出ました。チェスの名人が局面をどう知覚するかを扱った古典で、熟達者の知覚には、初心者とは異なる「見え方」の特徴があることを示した研究として知られています。

Schank, R. C.(1982). Dynamic Memory: A Theory of Reminding and Learning in Computers and People. Cambridge University Press.

Kolodner, J.(1993). Case-Based Reasoning. Morgan Kaufmann.

この2冊は、Didierjean & Gobet論文が「白銀号」の犬の沈黙を説明する際に直接引用している文献です。専門家が持つ知識(スキーマ)が現在の状況から次の展開を予測し、その予測が外れたとき——あるいは予測されていたはずの出来事が起きなかったとき——に注意が強く引かれる、という「期待違反」の考え方の出典にあたります。

なお、同じ枠組みの背景文献として、Schank, R. C., & Abelson, R. P.(1977). Scripts, Plans, Goals, and Understanding(Erlbaum)も挙げられます。こちらは本論文が直接引用した文献ではなく、スキーマ理論の基礎を築いた先行研究として位置づけられます。

Melcher, J. M., & Schooler, J. W.(1996). The misremembrance of wines past: Verbal and perceptual expertise differentially mediate verbal overshadowing of taste memory. Journal of Memory and Language, 35(2), 231–245.

こちらもDidierjean & Gobet論文が直接参照している研究です。ワインの専門家が、味わいを言葉で説明しようとすると記憶成績が低下するという実験結果を示したもので、この効果は「知覚的な熟達に、それを言い表す言語的な知識が伴っていない」条件で生じるとされています。この条件をホームズに単純に当てはめられるわけではありませんが、ホームズがワトスンに推理を説明し続ける行為が、彼の専門性にとってプラスに働くのかマイナスに働くのかを考える手がかりとして、記事筆者としては興味深く感じます。

Gobetの関連研究——テンプレート理論とチェス研究

Didierjean & Gobet論文のPart 1にある「チャンク/テンプレート」の議論は、著者フェルナン・ゴベ自身が展開してきた理論的枠組みです。

まず区別しておくと、「チャンク」概念自体はChase & Simon(1973)らのチェス研究に遡る、より古い知見です。Gobetらはこれを拡張し、固定的な核と可変的な要素を併せ持つ「テンプレート」という、より柔軟な知識構造の理論を提案しました。

Gobet, F., & Simon, H. A.(1996). Templates in chess memory: A mechanism for recalling several boards. Cognitive Psychology, 31, 1–40.
Gobet, F.(1998). Expert memory: A comparison of four theories. Cognition, 66, 115–152.
Gobet, F., & Jackson, S.(2002). In search of templates. Cognitive Systems Research, 3(1), 35–44.
Gobet, F., & Charness, N.(2006). Chess and games. In Cambridge Handbook on Expertise and Expert Performance.

CHREST(Chunk Hierarchy and REtrieval Structures)は、こうしたチャンク化・テンプレート形成の考え方を計算モデルとして実装したもので、Gobetらが開発・発展させてきたモデルです。

この理論的系譜と関連して、Didierjean & Gobet論文のPart 2で「才能か鍛錬か」という問いが結論保留のまま残された論点について、Gobetと共同研究者による先行するチェス研究があります。

Bilalić, M., McLeod, P., & Gobet, F.(2007). Does chess need intelligence? — A study with young chess players.(巻・頁は本記事作成時点で未確認)
Campitelli, G., & Gobet, F.(2011). Deliberate practice: Necessary but not sufficient. Current Directions in Psychological Science.(巻・頁は本記事作成時点で未確認)

前者は、子どものチェス習熟度と知能の関係を検証した研究、後者は「意図的練習は必要だが十分ではない」という立場を示した論考です。いずれも本論文より後、あるいは並行して発表された、Gobetを中心とする研究群の一部として位置づけられます。

別分野の関連文献

ホームズという同じ素材は、心理学以外の分野からも論じられています。

Tobin, V.(2006). Ways of reading Sherlock Holmes: The entrenchment of discourse blends. Language and Literature. これは言語学・認知詩学からのアプローチで、ホームズ自身の認知過程を扱うものではなく、読者やシャーロッキアンがホームズ作品をどのように読み、意味を構成していくかという「読みの実践」を扱った研究です。

Loftis, S. F. The Autistic Detective: Sherlock Holmes and his Legacy. Disability Studies Quarterly. 障害学の立場から、「自閉的な探偵像」がホームズ以降の作品群でどのように文化的に表象されてきたかを検討する研究です。ホームズ本人を医学的に診断する試みではない点に注意が必要です。

新田邦彦.「シャーロック・ホームズの『観察力』の研究——記号論の視点から」『ホームズの世界』(36), 135–143, 2013. 日本シャーロック・ホームズ倶楽部発行の会誌に掲載された、記号論からのアプローチによる国内文献です。

これらはDidierjean & Gobet論文が直接参照した研究ではなく、同じホームズという素材を別の学問領域が別の問いで扱ってきた例として紹介するものです。

一般読者向けの入口

Konnikova, M.(2013). Mastermind: How to Think Like Sherlock Holmes. 邦訳は、日暮雅通訳『シャーロック・ホームズの思考術』(早川書房、2014年。文庫版は2016年)として刊行されています。

シャーロッキアンでもある心理学者・ジャーナリストが、神経科学と心理学の知見を踏まえてホームズの思考法を論じた一般書です。Didierjean & Gobet論文を直接発展させた著作というわけではありませんが、同じ領域——専門家の思考をホームズという素材で考える——に関心を持つ読者にとって、学術論文よりも読みやすい入口になります。

段階別・読書案内

入門:Konnikova『シャーロック・ホームズの思考術』 → Didierjean & Gobet(2008)本編 Part 1
中級:Didierjean & Gobet(2008)本編 Part 2 → Melcher & Schooler(1996)
上級:de Groot(1946/1965) → Gobet & Simon(1996) → Bilalić et al.(2007)

ご自身の関心に応じて、どこから読み始めるかを選んでみてください。


参考文献

Didierjean, A., & Gobet, F.(2008). Sherlock Holmes – An expert’s view of expertise. British Journal of Psychology, 99(1), 109–125. https://doi.org/10.1348/000712607X224469
Didierjean, A., & Gobet, F.(2008). Can a 150-year-old British detective help modern cognitive psychology? The Psychologist.
de Groot, A. D.(1946/1965). Thought and Choice in Chess. Mouton.
Schank, R. C.(1982). Dynamic Memory: A Theory of Reminding and Learning in Computers and People. Cambridge University Press.
Kolodner, J.(1993). Case-Based Reasoning. Morgan Kaufmann.
Schank, R. C., & Abelson, R. P.(1977). Scripts, Plans, Goals, and Understanding. Erlbaum.
Melcher, J. M., & Schooler, J. W.(1996). The misremembrance of wines past. Journal of Memory and Language, 35(2), 231–245.
Gobet, F., & Simon, H. A.(1996). Templates in chess memory. Cognitive Psychology, 31, 1–40.
Gobet, F.(1998). Expert memory: A comparison of four theories. Cognition, 66, 115–152.
Gobet, F., & Jackson, S.(2002). In search of templates. Cognitive Systems Research, 3(1), 35–44.
Gobet, F., & Charness, N.(2006). Chess and games. In Cambridge Handbook on Expertise and Expert Performance.
Bilalić, M., McLeod, P., & Gobet, F.(2007). Does chess need intelligence? — A study with young chess players.
Campitelli, G., & Gobet, F.(2011). Deliberate practice: Necessary but not sufficient. Current Directions in Psychological Science.
Konnikova, M.(2013). Mastermind: How to Think Like Sherlock Holmes.(邦訳:日暮雅通訳『シャーロック・ホームズの思考術』早川書房、2014年)
Tobin, V.(2006). Ways of reading Sherlock Holmes. Language and Literature.
Loftis, S. F. The Autistic Detective: Sherlock Holmes and his Legacy. Disability Studies Quarterly.
新田邦彦.「シャーロック・ホームズの『観察力』の研究——記号論の視点から」『ホームズの世界』(36), 135–143, 2013.

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