先日、「コナン・ドイルとボクシング ― ホームズも受け継いだ「拳」への愛」という記事を書いた際、あえて触れずに残した話がありました。1922年、Battling SikiとJoe Beckettの一戦をめぐる一件です。当時は「単独でしっかり扱うべき重い話題」として先送りにしていましたが、今日はその積み残しについて書いてみたいと思います。
Battling Sikiという拳闘家
まずBattling Sikiについて簡単に紹介しておきます。本名の表記には資料間で揺れがあり、Amadu Fallとも、フランスで名乗ったLouis M’barick Fallともされています。1897年、フランス領セネガルのサン=ルイに生まれたとされますが、生年についても1897年説・1898年説があり、ここでは断定を避けます。幼くしてフランスに渡り、第一次世界大戦では仏軍の植民地部隊に従軍して戦功を挙げました。そして1922年9月24日、モンルージュのバッファロー・ヴェロドローム(Stade Buffalo)で、当時の世界・欧州ライトヘビー級王者Georges Carpentierを破り、アフリカ生まれの選手として初めて世界王座に就きました。約4万人の観衆が集まった一戦だったと伝えられています。この経歴については、Peter Benson, Battling Siki: A Tale of Ring Fixes, Race, and Murder in the 1920s(University of Arkansas Press, 2008)という専門的な伝記研究があり、より詳しく知りたい方にはそちらをお勧めします。
英国での一戦が禁止された経緯
このSikiと、当時の英国ヘビー級王者Joe Beckettとの一戦が英国内で企画されましたが、英国内務省はこれを禁止しました。The Guardianの記事(Thomas Hauser氏執筆、2026年8月13日)によれば、内務省は禁止の理由として、有色人種と白人の対戦は気質の面で相容れず、様々な感情を刺激するものであり、英国内に多数の有色人種の国民を抱える以上、こうした試合は国益に反すると考える、という趣旨の声明を出したとされています。
ここで一つお断りしておきたいのですが、私が直接確認できたのはHauser氏の記事に引用された内務省声明の文言であり、内務省の一次資料そのものにはまだ当たれていません。文言の正確な出典(発表形式や日付など)については、いずれ機会があれば英国立公文書館の記録などで確認したいと思っています。
ドイルの発言
Hauser氏の記事は、この禁止措置についてドイルが支持を表明していたことも伝えています。要旨だけを紹介すると物足りないので、ここは少し丁寧に紹介したいと思います。ドイルは、かつては白人と有色人種の間にも偉大な試合があった(19世紀のクリブ対モリノー戦などを念頭に置いていると思われます)と認めつつも、当時はこれほど状況が複雑ではなかった、大英帝国にはこれほど多くの黒人はいなかった、と述べています。そのうえで、今日では異人種間の試合はスポーツの範囲を超え「人種間政治」の領域に入ってしまう、と論じ、黒人と白人は分けておき、それぞれの中で戦わせればよい、と結論づけています。
この発言について、私が現時点で確認できたのはHauser氏の記事に掲げられた引用文までであり、ドイルの原発言の掲載媒体、発言日、発言の形式(書簡・寄稿・談話等)は未確認です。ドイルが1892年から1930年にかけてThe Timesに140本ほどの書簡・記事を寄せていたことは知られていますが、現在確認できる同紙関連の書誌一覧を見る限り、1922年の項目にSikiやBeckett、ボクシングに関する寄稿は見当たりません。したがって、この発言をThe Times寄稿の一つと推定する根拠は今のところなく、掲載媒体は未確認のままとするのが正確です。一次資料の探索は、The Times Digital ArchiveだけでなくBritish Newspaper ArchiveやNational ArchivesのHome Office記録なども横断して行う必要があり、これは今後の課題としたいと思います。
この発言について、私個人の感想を述べるとすれば、ドイル自身がボクシングを純粋に愛好し、実践してきた人物であっただけに、その愛好の対象である競技において、当時の大英帝国の統治という文脈から人種間の対戦を政治問題として語ってしまったという事実には、複雑な思いを抱かざるを得ません。ドイルの人物像は、こうした時代の制約からも自由ではなかった、ということを記録しておく必要があると感じています。
おわりに
前回の記事では、ドイル自身のボクシング愛と、それが正典のホームズ像にどう投影されているかという、いわば明るい面を中心に紹介しました。今回はその裏側にある、ドイルの人物像の複雑さを示すエピソードを記録しておきたいと思い、筆を執りました。
なお余談ですが、この一連の話のきっかけとなったGuardian記事の著者Hauser氏は、同じ2026年8月に新作パスティーシュ『Sherlock Holmes and Mrs. Rutledge』(Pear Publishing)を刊行しています。ワトスンを語り手とし、1891年10月19日のベイカー街を起点に、Victoria Rutledgeという新たな人物を軸に据えた作品とのことです。刊行日は書店データ間で表示に相違があり(Amazon.comは8月11日、Brownsは8月1日と記載)確定情報とは言えませんが、作品自体にボクシングを主題とする要素があるという記載は今のところ確認できていません。今回はあくまで近況としてお伝えするに留めます。
参考・出典
- Thomas Hauser, “‘Boxing is in the blood’: Sherlock Holmes, Arthur Conan Doyle and the prize ring”, The Guardian, 2026年8月13日
- “Battling Siki” – Wikipedia
- Peter Benson, Battling Siki: A Tale of Ring Fixes, Race, and Murder in the 1920s(University of Arkansas Press, 2008)(出版社ページ)
- “The Times” – The Arthur Conan Doyle Encyclopedia
- Sherlock Holmes and Mrs. Rutledge – Amazon.com(刊行日: 2026年8月11日表記)
- Sherlock Holmes and Mrs. Rutledge – Browns(刊行日: 2026年8月1日表記)

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