2026年7月21日:「非/フィクション」の戯れ ― Kate M. Donley “Early Sherlockian Scholarship” を読む

シャーロッキアン日記

Academiaで送付されてきたのがノリッジ大学のケイト・M・ドンリー(Kate M. Donley)による論考 “Early Sherlockian Scholarship: Non/fiction at Play” です。『Transformative Works and Cultures』第23号(2017年、特集「Sherlock Holmes Fandom, Sherlockiana, and the Great Game」)に収録されたオープンアクセス論文で、ホームズとワトスンをあたかも実在の人物であるかのように扱い、正典の矛盾や空白を「学術的」な体裁で論じ立てる、いわゆる「グレート・ゲーム(higher criticism)」の文章文化――シャーロッキアン・スカラーシップ――が、20世紀初頭にどのように誕生し、発展していったのかを年代記的に跡付けた研究です。すでに4月に紹介していたと思いますが、重要な論文なので、シジウィックやノックスの経緯(前回扱った歴史パート)には深入りせず、「ドイル的/シャーロッキアン的」という二分法そのものと、その理論的な含意に絞ります。

 

この論文が提示する最も重要な整理が、正典研究における二つのアプローチの区分です。ひとつは「ドイル的(Doylean)」——ホームズ物語をコナン・ドイルという作家が創作したフィクションとして扱う立場。もうひとつが「シャーロッキアン的(Sherlockian)」——正典をフィクションとしてではなく、ワトスン医師が書き残した回想録・伝記として扱う立場です。

この二分法が興味深いのは、シャーロッキアン的アプローチが「学術論文の体裁を取りながら、実態はフィクションを論じている」という、根本的にねじれた構造を持っている点です。『まだらの紐』の「牛乳を飲む蛇」の生態学的な不自然さを大真面目に検証したり、ワトスン夫人が生涯に何人いたのかを論じたりする——これらは形式としては学術的な考証そのものですが、対象そのものが虚構である以上、その営み全体がノンフィクションを装ったフィクション遊戯にほかなりません。著者はこれを「ノン/フィクション性(non/fictionality)」という語で括り、ジェラール・ジュネットの間テクスト性、ロラン・バルトの「作者の死」や「読者を書き手に変える」というテクスト論を参照しながら理論化しています。

この構造は、正典そのものに内在する仕掛けでもあります。『緋色の研究』が「ワトスン医師の回想録からの抜粋」と自己規定していること、ホームズがワトスンを「ぼくのボズウェル」と呼ぶことなど、正典はもとよりノンフィクションを装う身振りに満ちています。シャーロッキアン的読解は、この仕掛けに乗っかることで初めて成立する遊びだ、という点を著者は強調します。

もう一点、この二分法の射程を考えるうえで見逃せないのが、著者が触れる「コナン・ドイルという存在そのものの扱い」です。シャーロッキアン的な読みの内部では、ドイルは物語の創作者ではなく、あくまでワトスンの著作の「発表」に関わった人物として位置づけられます。ノックスの論考にも、ドイルを「(物語の)創作ではなく発表の専門家」とほのめかす一節がすでに見られると著者は指摘しており、序章・第1章で述べてきた「ワトスンの文学代理人」という役どころが、この二分法から自然に導かれる帰結であることが分かります。

最後に著者は、この区分が持つ影響力の広がりにも触れています。「シャーロッキアン的(作中視点)」対「ドイル的(作品外視点)」という枠組みは、その後「ワトソニアン」対「ドイリスト」という呼称で他のファンダムにも輸出され、汎用的な分析概念として定着していきました。シャーロッキアン研究が生んだこの二分法が、単なる一ジャンル内の用語にとどまらず、フィクション分析全般に影響を与える語彙になった、という点は、本論考の射程の広さを示す一例と言えるでしょう。

 

書誌情報

Donley, Kate M. “Early Sherlockian Scholarship: Non/fiction at Play.” In Sherlock Holmes Fandom, Sherlockiana, and the Great Game, edited by Betsy Rosenblatt and Roberta Pearson, special issue, Transformative Works and Cultures, no. 23 (2017). http://dx.doi.org/10.3983/twc.2017.0837

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