今回ご紹介するのは、サリー大学のブラン・ニコル(Bran Nicol)による論考 “Sherlock Holmes Version 2.0: Recent Screen Re-Imaginings of Doyle”です。Sabine Vanacker、Catherine Wynne編『Sherlock Holmes and Conan Doyle: Multi-Media Afterlives』(Palgrave, Crime Files Series, 2013, pp.124–139)に収録されたもので、著者本人によるオープンアクセス版を底本としています。
取り上げられるのは、2009年のガイ・リッチー版映画『シャーロック・ホームズ』(ロバート・ダウニー・Jr主演)と、2010年のBBCドラマ『SHERLOCK』(ベネディクト・カンバーバッチ主演)。両者とも「原作回帰」を謳って登場した21世紀の再解釈ですが、著者はこれらを正典そのものというより、現代の犯罪スリラーというジャンルが視聴者に何を要求しているかを映す鏡として読み解いていきます。
出発点:仕事と、時折の不品行
論考は、1910年発表の『悪魔の足』で、ワトスンが「近年新しい事件を紹介してこなかったのはネタ切れではなく、友人が世間の耳目を集めることを嫌うからだ」と弁明する場面から始まります。著者はここに「仕事」と「時折の不品行」という、ホームズ人気を支える二つの核を見出したうえで、百年後のホームズが全裸でベッドポストに縛られて目覚めたり(リッチー版)、スマートフォンで天気予報を確認したり(BBC版)する存在になったことに注目します。
両作品はいずれも「原作にありながら見過ごされてきたものを取り戻す」ことを標榜しますが、著者はこれを額面通りには受け取らず、両作とも「論理と推理」という古典的探偵小説のモデルが、スリルとサスペンスを備えた現代的な「クライム・スリラー」へと変質していく過程の症例として分析していきます。
怪物性の系譜―ハンニバル・レクターというもう一人のホームズ
著者はラスボーン/ブルース版、ビリー・ワイルダー版、ジェレミー・ブレット版と歴代ホームズ像を辿ったうえで、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターを補助線に据えます。警察と協力しつつ情報を隠す点、些細な手がかりから人物像を組み立てる点など、レクターはホームズの方法論が暴力的な時代で発酵した姿として位置づけられるというわけです。
ここでギル・プレインの議論(『Twentieth-Century Crime Fiction』)が援用されます。19世紀の推理小説が「怪物的なものと対峙し飼い慣らす」物語だったのに対し、シリアルキラー小説の隆盛以降、怪物性は物語の外部ではなく内側――読者の感情移入の対象そのもの――に組み込まれるようになった、という指摘です。著者はこれを踏まえ、『バスカヴィル家の犬』でワトスンが荒野の人影に「悪意ある敵か、守護天使か」と怯える場面(実はホームズ自身だった)を引き、ホームズその人にも怪物性が宿っていることを示します。社会規範に収まらない「変人の天才」を、不穏になりすぎずどう描くか――これが現代のホームズ映像化の難題だと著者は論じます。
リッチー版:知性を身体に閉じ込める
著者によれば、リッチー版はホームズの異常性を病理の領域には踏み込ませず、あくまで「エキセントリック」の範囲に留めています。その鍵となるのが真の怪物として配置された悪役ブラックウッド卿で、処刑前の独房を訪ねる場面は『羊たちの沈黙』のボルチモア刑務所のシーンを明らかに反響させ、「危険な策謀家はホームズではなく敵役の方だ」という一種の保険として機能していると分析されます。
同時にこの映画は「ホームズの方法(推理法)」の比重を下げ、肉体的な勇敢さと格闘技術へと重心を移します。格闘シーンを脳内シミュレーションとして先に見せる演出(「頭を左に傾けている=片耳難聴、まず攻撃すべきはここ……」という内的独白)は、ホームズをテレビゲームのアクションヒーロー同様、身体能力を強化する「搭載コンピューター」に変えてしまっている、というのがこの節の結論です。
BBC版:ホームズをOSアップデートする
一方でBBC版は、同じ「ホームズ=機械」というモチーフを矮小化せず現代に「再文脈化」していると著者は評価します。原作のホームズがもともと「身体に真実を語らせる機械」だったという先行研究(ロナルド・R・トマス)を踏まえ、BBC版はこれを21世紀の犯罪捜査を駆動するコンピューターの化身として置き換えます。現場でつぶやかれる息もつかせぬ「鑑識詩」や、画面に重ねられるSMSの文面は、ホームズを巨大な「犯罪解決メインフレーム」に接続された端末として視覚化しています。
第3話でのワトスンとのやりとり――原作でホームズの無知ぶりに驚く場面が「首相の名前も知らない」という現代版に置き換えられ、ホームズが「これは俺のハードディスクだ」と答える場面――はこの比喩を明示的にします。著者はここでボードリヤールの「生産(production)」概念を援用し、霧ではなく光の速さで動く「巨大なコンピューター回路」のようなBBC版のロンドンこそが、この生産システムを体現していると論じます。ホームズを「フリーク」呼ばわりする警官サリー・ドノヴァンでさえ、実は同じシステムに仕える者にすぎない、という逆説です。
ソシオパスとしてのホームズ、視聴者としてのソシオパス
第1話でホームズは自らを「サイコパスではない、ハイ・ファンクショニング・ソシオパスだ」と称します。著者はこれを、共感の欠如を明示的に「病理」として提示する画期的な転換と捉えます。死産した娘を14年経ってもなお悼む母親の気持ちが理解できないホームズの姿は、フレドリック・ジェイムソンの「情動の減退」というポストモダン論と重ねられます。現代の犯罪スリラーは涙や怒りに満ちていますが、視聴者はそれに深く動かされることなく、あくまで「筋書きの解明」に冷徹な関心を向けている――つまり視聴者自身が「ハイ・ファンクショニング・ソシオパス」の視点に立たされている、というのが著者の刺激的な主張です。
この延長線上に、著者は『四つの署名』でホームズがコカインを正当化する「仕事をくれ、そうすれば刺激剤など要らない」という台詞を引き、『大いなるゲーム』冒頭で退屈のあまり壁に銃弾を撃ち込むホームズや、「僕は退屈だからやっている」と告白する再解釈版モリアーティを重ねます。さらにカンバーバッチが閃きの瞬間に見せる恍惚とした表情を、フロイトの「エピステモフィリア(知識愛)」――思考のプロセスそのものが性的に高揚する状態――になぞらえ、ホームズとワトスンの同性愛的な含みをめぐる巧妙なミスリードよりも、この「思考への陶酔」こそがシリーズ中もっとも性的に高揚した瞬間だと論じています。
感想
著者は、探偵と読者の並行関係というトドロフの定式(「作者:読者=犯人:探偵」)を引きつつ、BBC版がアクションとパズル解きの快楽を併せ持つことで、視聴者自身をも「共感なきソシオパス」の位置に置いていると結論づけます。恐怖に身を委ねながら他者の苦しみには冷淡に、謎の解明にだけ知的関心を向ける――このモードこそが21世紀のクライム・スリラーが支配的地位を占める理由ではないか、というのが結びの問いです。リッチー版がホームズの怪物性を「ビデオゲーム的アクションヒーロー」として安全に処理したのに対し、BBC版は19世紀の創造物を現代の気質そのものへと接続させてみせた、と著者は評しています。
「ホームズ=機械」という比喩自体は目新しくありませんが、それをボードリヤール的な「生産」システムの体現、さらには視聴者の視聴態度への批評として展開する手つきは、単なる映像化比較を超えた射程を持つ論考だと思います。
書誌情報
Nicol, Bran. “Sherlock Holmes Version 2.0: Recent Screen Re-Imaginings of Doyle.” In Sabine Vanacker and Catherine Wynne, eds., Sherlock Holmes and Conan Doyle: Multi-Media Afterlives. London: Palgrave Macmillan, Crime Files Series, 2013. pp.124–139.

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