先日、ある論文を追いかけているうちに、ソール・クリプキ本人が自分の議論を「誤りだったようだ」と書いている一文に行き当たりました。しかも、その対象はシャーロック・ホームズです。てっきり書誌調査のつもりが、思いのほか奥行きのある話につながりましたので、今回はホームズと分析哲学の関係について書いてみます。
1980年の問い:その探偵は「ホームズ」か
出発点は、クリプキの主著Naming and Necessity(Harvard University Press, 1980)です。本書の増補部分(Addenda)157〜158頁で、クリプキはこう問いかけます。もし現実に、ドイルの描写にぴったり合う探偵が存在した、あるいは存在し得たとしたら、その人物は「シャーロック・ホームズ」なのか、と。
答えは否定的です。仮に誰かがドイルの物語とそっくりの行動を取っていたとしても、それだけでは「ドイルはその人物について書いていた」ことにはなりません。しかも、ホームズの冒険を演じ得る可能性のある人物は一人とは限らない以上、そのうちの誰を「ホームズだったはずの人物」と特定できるのか——「もしそうだとしたら、どの人物なのか」という基準がそもそも存在しない。クリプキはこう論じます。
クリプキは何を訂正したのか
ここからが今回の発見です。クリプキは後年、1973年3月にコネチカット大学で行った講演をもとにした論考”Vacuous Names and Fictional Entities”を発表します(Philosophical Troubles: Collected Papers, Volume 1, Oxford University Press, 2011, pp.52–74)。その脚注7(p.54–55)で、1980年版pp.157–158の議論に触れながら、以前「シャーロック・ホームズ」という名を「現実の個体だが、可能な個体ではないもの」の名として用いた点を、いまでは誤りだったと思う、と述べています。
ただし、この訂正を、物語の描写に一致する人物をホームズと同定できないという議論全体の撤回と読む必要はありません。訂正されているのは、ホームズという存在をどう様相論理的に分類するかという、かなり技術的な一点です。むしろ2011年の論考では、チャールズ・ダーウィンがもし別の道を選んでいたらロンドンで名探偵になっていたかもしれない、という思考実験まで用いて、「その人物がホームズだったとは言えない」という1980年の結論を改めて確認しています。この訂正の射程がどこまで及ぶのかは、Noonan (2021) が専門的に検討しています。
物語の中と外:もう一つのホームズ論
2011年の論考でクリプキが本格的に展開するのは、もう一つの問題です。物語の中で「ホームズは煙草を吸う」と語ることと、物語の外で「ホームズはドイルが創造した架空の人物だ」と語ることは、同じ「ホームズ」という名前を使っていても、まったく別の話をしています。
クリプキの整理はこうです。物語の内部では、ホームズという名は「指示しているふり」をしているだけで、実在の人物を指してはいません。ところが物語の外で「そのような架空の人物がいた」と語るとき、私たちは実は人間の創作活動によって成立する抽象的な存在(fictional entity)について、真剣に、真理値を持つ主張をしている。クリプキはこちらについては実在論的な立場を取ります。つまり「架空の登場人物」自体は、国家や制度と同じように、人間の営みによって実在する抽象的対象だという考え方です。なお、この二分法の完成形は、同じ1973年の講演をもとにしたReference and Existence: The John Locke Lectures(Oxford University Press, 2013)でさらに詳しく展開されています。
Tiedke対García-Carpintero:ホームズは実在するか、しないか
この論点をめぐって、実際に一つの論争が起きています。当事者は、Manuel García-Carpintero(バルセロナ大学)と、2011年にはTiedke名義で発表したHeidi Savage(SUNY Geneseo)です。書誌を確認したところ、この二つの名前は同一人物を指すことが分かりました。Savage自身が2020年の論文で「私の以前の論文(Tiedke (2011))」と自己言及しており、Google Scholarでも「Heidi Tiedke, Heidi Savage」と別名義がまとめて表示されています。改姓の時期や事情までは資料からは分かりませんが、同一人物であることは確認できました。
発端は、Tiedke(2011)”Proper Names and Their Fictional Uses”(Australasian Journal of Philosophy, 89/4, pp.707–726)です。ここでTiedkeは、固有名がクリプキ的な「命名の儀式(ダビング)」によって意味を得るという枠組みを保ちながら、虚構名の場合は指示対象の代わりに「性質の集合」が結びつけられる、という反実在論的な立場を組み立てました。
たとえば「ホームズは煙草を吸う」という一文を考えてみます。Tiedkeの説明では、この文が真になるのは、「煙草を吸う」という性質が、その名に結びつけられた性質の集合に含まれているときです。
この「性質の集合」として名の意味を捉える発想は、当サイトでも別の角度から取り上げたことがあります。2026年4月1日の日記で紹介したShort(2014)の論文も、ホームズという名に結びついた性質の集合を、数学的な意味での集合として実在すると見なす立場を扱っており、Tiedkeの議論と近い系譜に位置づけられます。
これに対してGarcía-Carpintero(2019)”Semantics of Fictional Terms”(Teorema, 38/2, pp.73–100)は、77頁でこう問います。それは実質的に、性質の集合そのものを一種の抽象的対象として扱っていることにならないか、と。名前の意味を性質の集合とする以上、その名前は「性質によって個体化される抽象的対象」を指していることになり、これはWolterstorffやCurrieのような実在論者の立場と、呼び方が違うだけの同じ内容ではないか、というわけです。
Savage(2020)”How I Learned to Stop Worrying and Love ‘Sherlock Holmes’: A Reply to Garcia-Carpintero”(Teorema, 39/1, pp.105–134)は、この批判に応答した論文です。Savageの反論の骨子は、自分の述語づけの規則は「対象への性質の帰属」そのものを再定義しているのではなく、「述語づけ」という営み自体の理解を変えているのだ、という点にあります。つまり、名前が指示対象を持つという前提そのものを外しているのであって、実在論者のように指示対象を抽象的対象に置き換えているわけではない、という主張です。この短い紹介では、応答の成否までは判定しません。
Ludlowの拡張:ホームズは現実の探偵より賢いか
もう一つ興味深いのが、Peter Ludlow(2006)”From Sherlock and Buffy to Klingon and Norrathian Platinum Pieces: Pretense, Contextualism, and the Myth of Fiction”(Philosophical Issues, 16/1, pp.162–183)です。168〜170頁と172〜174頁で、Ludlowは「ホームズは現存するどの探偵よりも賢い」という文を検討します。
Ludlowはまず、「ふりをする」という操作を文に補う分析を試し、ホームズと現実の探偵を比べる場合にはうまく働かないと論じます。そのうえで、何をホームズと呼び、何を「より賢い」と言えるかは、発話の文脈に応じて考えるべきだと提案します。ホームズの例は、この文脈依存の説明を試す事例なのです。
前史としてのラッセルとクワイン
最後に、記述理論や存在論的コミットメントの議論を切り開いたバートランド・ラッセルとW.V.O.クワインにも触れておきます。今回、ラッセルの”On Denoting”(Mind, 14/56, 1905, pp.479–493)と、クワインの”On What There Is”(Review of Metaphysics, 2, 1948, pp.21–38)の本文をそれぞれ確認しましたが、確認した範囲では、直接の言及は見当たりませんでした。ラッセルが挙げる例は「現在のフランス王」やアポロ、ハムレットなど、クワインの空虚名の代表例はペガサスです。
つまりこの二人は、後の虚構名論争を可能にした理論的な土台を用意した先駆者ではあっても、「ホームズを使った哲学者」に直接数えることはできません。
おわりに
シャーロック・ホームズという名前は、私たちシャーロッキアンにとっては愛すべき探偵の名ですが、20世紀後半の言語哲学にとっては、固有名の指示や虚構の存在論を試すための、格好の実験台であり続けてきたようです。クリプキ自身の訂正、Tiedke=Savageの反実在論、García-Carpinteroの批判、Ludlowの拡張。それぞれの立場を並べてみると、「ホームズは実在するか」という一見単純な問いの奥に、これほど精緻な議論が積み重ねられてきたのかと、あらためて驚かされます。
参考文献
- Kripke, S. (1980). Naming and Necessity. Harvard University Press. Addenda, pp.157–158.
- Kripke, S. (2011). “Vacuous Names and Fictional Entities.” In Philosophical Troubles: Collected Papers, Volume 1. Oxford University Press, pp.52–74. Oxford Academic
- Kripke, S. (2013). Reference and Existence: The John Locke Lectures. Oxford University Press.
- Tiedke, H. (2011). “Proper Names and Their Fictional Uses.” Australasian Journal of Philosophy, 89(4), pp.707–726.
- García-Carpintero, M. (2019). “Semantics of Fictional Terms.” Teorema, 38(2), pp.73–100. PDF
- Savage, H. (2020). “How I Learned to Stop Worrying and Love ‘Sherlock Holmes’: A Reply to Garcia-Carpintero.” Teorema, 39(1), pp.105–134. PhilPapers
- Ludlow, P. (2006). “From Sherlock and Buffy to Klingon and Norrathian Platinum Pieces: Pretense, Contextualism, and the Myth of Fiction.” Philosophical Issues, 16(1), pp.162–183. PhilArchive
- Noonan, H. (2021). “Kripke Was Right Even If He Was Wrong: Sherlock Holmes and the Unicorns.” Disputatio, 13(60), pp.51–69.
- Russell, B. (1905). “On Denoting.” Mind, 14(56), pp.479–493.
- Quine, W. V. O. (1948). “On What There Is.” Review of Metaphysics, 2, pp.21–38.

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