2026年10月14日:社会科学はホームズをどう読んできたか(前編):「方法のモデル」としてのホームズ

academia.eduから届いたメールアラートに、”Converging Precincts: Sociology and Sherlock Holmes” という論文が入っていました。インド社会学会(Indian Sociological Society)の機関誌 Sociological Bulletin に2018年に載ったもので、著者はジャワハルラール・ネルー大学のKetaki Dwivedi氏です。社会学の専門誌がホームズを正面から扱っていることに目を引かれ、さっそく読んでみました。

論文の主張は、19世紀の社会学と探偵小説は同じ時代の不安から生まれた「並行する営み」だった、というものです。構図は分かりやすいのですが、読み進めるうちに、ある節の文章に既視感を覚えました。調べてみると、半世紀近く前に書かれた別の論文と、ほとんど同じ文がいくつも並んでいたのです。

そこで今回は、Dwivedi論文だけを紹介するのをやめて、「社会科学はホームズをどう読んできたか」という系譜をたどってみることにしました。

社会科学によるホームズ読解は、大きく二つに分けられると私は考えています。

  • ホームズの推理を、観察・仮説・検証という研究の方法のモデルとして読むもの
  • ホームズ物語を、近代社会の都市や秩序や不安を映す分析の対象として読むもの

ただし、これは論者を二つの陣営に分ける分類ではありません。一人の論者が両方の問いを扱うこともあります。ここでは、ホームズ読解のどの側面に重心を置くかを整理するための区分として使います。

前編では一つ目の「方法のモデル」を扱い、後編で二つ目を扱います。なお、以前紹介した認知心理学によるホームズの専門性の研究は、「なぜ専門家には違うものが見えるのか」という問いでした。今回の問いはそれとは別で、「ホームズのやり方は社会科学の方法として通用するのか」です。

トゥルッツィ「応用社会心理学者としてのシャーロック・ホームズ」

系譜の起点に置きたいのは、アメリカの社会学者マルチェロ・トゥルッツィ(Marcello Truzzi, 1935–2003)の論文 “Sherlock Holmes: Applied Social Psychologist” です。トゥルッツィはコーネル大学で社会学の博士号を取り、1974年からイースタン・ミシガン大学の社会学教授を務めた人です。超常現象の主張を、頭ごなしに否定も肯定もせず検証する立場でも知られています。

この論文は、トゥルッツィ自身が編んだ論集 The Humanities as Sociology(1973年)に収められました。冒頭の注には「本書のために特に書かれた」とあり、著作権表示は1971年です。その後、エーコとシービオクの編んだ『The Sign of Three』(1983年)に再録されました。この本には小池滋監訳の邦訳『三人の記号:デュパン、ホームズ、パース』(東京図書、1990年)があり、トゥルッツィの章は富山太佳夫訳「応用社会心理学者としてのシャーロック・ホームズ」として読めます。原文はInternet Archiveでも公開されています。

ホームズの方法を組み立て直す

トゥルッツィの出発点は、ホームズの方法は物語の中心にあるのに、正典のどこにも体系的には書かれていない、という指摘です。そこで彼は、各作品に散らばるホームズの発言を拾い集め、方法を組み立て直しています。

骨組みになるのは、『四つの署名』の冒頭で、ホームズがフランスの探偵フランソワ・ル・ヴィラールを評した言葉です。

理想的な探偵として必要な条件が三つあるうち、二つまで備えている。観察力と推理力はあるけれど、ただ知識がたりない。しかしそれもそのうちには得ることになろう。あの男はいま、僕のちょっとした著作をフランス語に訳しているがね

観察力、推理力、知識の三つです。トゥルッツィはこの三つに沿って、たとえば「白銀号事件」の夜の犬のように、何かが起きなかったことまで手がかりにする観察の姿勢を整理していきます。

社会学者らしいのは、ホームズの発言を現代の社会科学の概念と対応させているところです。

  • 痕跡から間接的に情報を得るやり方は、調査対象に気づかれずにデータを集める「非反応的測定(unobtrusive measures)」の先取りである
  • 人は物理的な現実より、状況をどう定義するかに従って動く、というホームズの見方は、シンボリック相互作用論に近い
  • 理論と観察を絶えず突き合わせる姿勢は、社会学者マートンが説いた理論と調査の関係に通じる

『四つの署名』でホームズがウィンウッド・リードの説として紹介する一節も、トゥルッツィは「ここでホームズは、多くの心理学者に対して社会学の側に立っている」と読みます。

人間は個々に見れば不可解の謎だけれど、集約的に見るときは、一個の数学的確性をもつというのだ。

217件の推論、28件の検証

ただし、この論文はホームズ礼賛では終わりません。私がいちばん面白いと思ったのはここです。

トゥルッツィは正典60編を読み通し、ホームズがはっきりと推論を示している場面を少なくとも217件数えています。そして、その大半は厳密な意味での演繹でも帰納でもなく、哲学者パースのいう「アブダクション」だと指摘します。

違いは、トゥルッツィ自身が挙げている例で見ると分かりやすいです。

  • 演繹:深い刺し傷は必ず出血する。これは深い刺し傷だった。だから出血があった。
  • 帰納:これは深い刺し傷だった。出血があった。だから深い刺し傷は出血する。
  • アブダクション:深い刺し傷は必ず出血する。出血があった。だからこれは深い刺し傷だろう。

アブダクションの結論は、前提から必然的に導かれるものではなく、観察された事実を説明する仮説です。そのため、別の証拠に照らして確かめる必要があります。ところがトゥルッツィの数えたところでは、ホームズが仮説を実際に検証しているのは28件にとどまります。

その数少ない好例が「白銀号事件」です。ホームズは、犯人が馬の脚の腱に細工をする前に、近くの羊で練習したのではないかと考えました。そこで厩舎の少年に、羊のことを尋ねます。

「ちかごろになって羊に何か変ったことはなかったかね?」
「へえ、大したこともございませんが、三頭だけどういうものか脚の具合が悪くなりましたんで」

事件が片づいたあと、ホームズは自分の考えの筋道をこう説明しています。

ストレーカーのようなずるい男が、このむずかしい腱の手術をするのに、すこしも練習することなしに、いきなりやるはずはないと気がついたのです。ではどうしたら練習できるでしょう? そのとき私はふと羊のことを思い、尋ねてみると、むしろ自分がおどろくほど、私の推定があっているのを知りました

ホームズは、難しい手術には練習が必要だったはずだと考え、その練習台として羊を想定しました。そして、羊に脚の異変があったという返答を得ます。仮説から予測される事実を、別の証言で確かめた場面です。もちろん、羊の異変だけで、その原因や実行者まで確定するわけではありません。それでも、仮説を自分の頭の中だけで完結させず、外の証拠に照らしているという点で、トゥルッツィはこれを好例として挙げています。

トゥルッツィの結論は厳しいものです。ホームズの推論の大半は論理的な検討に耐えず、正解にたどり着くのは作者がそうさせているからだ、と言います。ホームズのパロディの多くは、まさにこの弱点を笑いの種にしている、という指摘も添えています。

さらにトゥルッツィは、遺伝を犯罪の原因として重く見る考えや、一部の集団に対する偏見など、ホームズが当時の通念を共有していた点も「正典の誤り」として率直に挙げています。

それでも論文の締めくくりは、ホームズの方法が犯罪学者たちに実際に影響を与えたことを踏まえ、「たとえ実在していたとしても、人間の科学にこれ以上の影響は与えられなかっただろう」というものです。方法の手本として評価しながら、検証の欠如という弱点を数字で示す。この両面性が、トゥルッツィ論文のいちばんの読みどころだと思います。

1971年の雑誌記事と、1974年の調査法教科書

トゥルッツィには、もう一本ホームズ論があるとされています。スコット・モリス(Scott Morris)との共著 “Sherlock Holmes as a Social Scientist” で、一般向けの心理学雑誌 Psychology Today の1971年12月号に載ったと、トゥルッツィの著作目録に記録されています。上の論文と著作権表示の年が同じなので関係が気になりますが、私はこの記事の本文をまだ読めていないため、内容がどう重なるのかは分かりません。

もう一冊、注目したい本があります。社会学者ウィリアム・B・サンダース(William B. Sanders)が編んだ The Sociologist as Detective(1974年。1976年に第2版)です。副題は「研究方法入門」で、「社会学者は探偵である」という見立てで社会調査の方法を教える教科書です。トゥルッツィの論文はこの本の第2版にも再録されたとされていますが、私は目次と頁をまだ現物で確かめていません。

少なくともこの本の存在は、「社会学者は探偵である」という見立てが、1970年代に調査法の教育にも使われていたことを示しています。

Ward & Orbell:政治学の教室へ

同じ問題系に属するのが、以前紹介したWard & Orbellの1988年の論文です。政治学の教育誌に載った短い論文で、ホームズ物語の抜粋を使って、前提、パラダイム、理論構築、検証を教える授業案でした。

題名はトゥルッツィとモリスの1971年の記事と同じ “Sherlock Holmes as a Social Scientist” です。ただ、Ward & Orbellの注(全36件)に並ぶのは、ホームズ物語の引用箇所と、ポパー、ヘンペル、クーン、ラカトシュ、トゥールミンといった科学哲学の文献で、トゥルッツィの名前はありません。題名の一致が偶然なのか、何らかのつながりがあるのかは分かりません。

Dwivedi論文の「方法」の節

ここで冒頭のDwivedi論文に戻ります。

Ketaki Dwivedi, “Converging Precincts: Sociology and Sherlock Holmes” は、Sociological Bulletin 第67巻第1号(2018年)、67〜83頁に掲載されています。社会学史と探偵小説史を並べて論じる論文で、後半に「Methods of Detection」という節があります。私が既視感を覚えたのはこの節でした。

例を一つだけ挙げます。トゥルッツィ論文(1973年版、100頁)とDwivedi論文(77頁)の文を並べてみます。

トゥルッツィ:”Central to Holmes’s basic approach, however, is his concern with the empirical verification of his conjectures.”

Dwivedi:”Central to Holmes’s basic approach is his concern with the empirical verification of his conjectures”

違いは “however” の一語だけです。ほかにも、ホームズの観察は事実の存在だけでなく不在にも及ぶという説明や、そのあとに『恐怖の谷』のモリアーティの書類、「第二の汚点」、「白銀号事件」の夜の犬が同じ順番で並ぶ箇所が、トゥルッツィの文章とよく対応しています。「データより先に理論を立てるな」という趣旨の台詞の出典として挙げる作品の顔ぶれも、トゥルッツィ論文の注と同じです。

Dwivedi論文がトゥルッツィを引いていないわけではありません。この節では「Eco & Sebeok, 1988, p. 59」という出典が示されていて、この頁は『The Sign of Three』でトゥルッツィの章が収録されている範囲(55〜80頁)に入ります。参照頁と文面の対応から、Dwivedi論文のこの節はトゥルッツィの章に依拠していると考えられます。ただし、出典は章の著者名ではなく、論集の編者名で示されています。

継承されなかった批判

ただ、出典の示し方以上に私が気になったのは、内容の受け継ぎ方です。

Dwivedi論文は、トゥルッツィのアブダクションの説明をほぼそのまま取り込んでいます。ところが、トゥルッツィがそれと対にして示した「ホームズは仮説をほとんど検証しない(217件中28件)」という批判は出てきません。代わりに、アブダクションが示した理論を帰納が検証する、という肯定的な流れでまとめられています。

トゥルッツィにとって、アブダクションはホームズの方法の核心でした。問題は、その仮説が十分に検証されないまま、物語の中では正解として扱われることです。この批判が抜けると、ホームズは手本としての科学者像だけが残ってしまいます。トゥルッツィが数字を使ってまで示そうとしたのは、まさにその像の危うさだったはずです。

前編のまとめ

「方法のモデル」としてのホームズ読解は、ここまでで次のような流れになります。

  • 1971〜73年:トゥルッツィが、ホームズの方法を社会科学の概念で読み直し、検証の欠如を数字で示す
  • 1974年:サンダース編の調査法教科書が、「探偵としての社会学者」を題名に掲げる
  • 1988年:Ward & Orbellが、政治学の授業でホームズを教材にする
  • 2018年:Dwivediが、社会学史との並行関係の中にホームズの方法を位置づける

後編では、もう一つの軸である「ホームズ物語を社会の分析対象として読む」系譜を、クラカウアー、モレッティ、ボルタンスキー、そして以前紹介したVasiliuの論文を通して追います。Dwivedi論文の残り半分は、むしろこちらの系譜に属しています。

参考文献

  • Dwivedi, Ketaki. “Converging Precincts: Sociology and Sherlock Holmes.” Sociological Bulletin 67, no. 1 (2018): 67–83. https://doi.org/10.1177/0038022917751978(「Methods of Detection」の節は77〜78頁)
  • Truzzi, Marcello. “Sherlock Holmes: Applied Social Psychologist.” In The Humanities as Sociology: An Introductory Reader, edited by Marcello Truzzi, 93–126. Columbus, OH: Charles E. Merrill, 1973.(著作権表示1971年。本文で対照した文は100頁、217件・28件の集計とアブダクションの議論は108〜110頁)Internet Archive
    • 再録:Umberto Eco and Thomas A. Sebeok, eds. The Sign of Three: Dupin, Holmes, Peirce. Bloomington: Indiana University Press, 1983, 55–80.
    • 邦訳:マルチェロ・トゥルッツィ「応用社会心理学者としてのシャーロック・ホームズ」富山太佳夫訳、ウンベルト・エーコ、トマス・A・シービオク編、小池滋監訳『三人の記号:デュパン、ホームズ、パース』東京図書、1990年。
    • 再録(未確認):William B. Sanders, ed. The Sociologist as Detective: An Introduction to Research Methods. 2nd ed. New York: Praeger, 1976.(初版1974年)
  • Truzzi, Marcello, and Scott Morris. “Sherlock Holmes as a Social Scientist.” Psychology Today 5, no. 7 (December 1971): 62–64, 85–86.(著作目録による。本文未確認)
  • コナン・ドイル『四つの署名』延原謙訳、新潮文庫(第1章、第10章)。
  • コナン・ドイル「白銀号事件」、『シャーロック・ホームズの思い出』延原謙訳、新潮文庫。
  • ※延原訳の引用は、新潮文庫版シャーロック・ホームズ全集のCD-ROM版で本文を照合しました。
  • Ward, Veronica, and John Orbell. “Sherlock Holmes as a Social Scientist.” The Political Science Teacher 1, no. 4 (Fall 1988): 15–18.

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