2026年9月7日:「探偵を演じること」の孤独——Samuel Saundersの論考を読む

シャーロッキアン日記

最近、興味深い論文を読みましたのでご紹介します。Samuel Saundersという研究者が2019年にOpen Library of Humanities誌に発表した論文で、タイトルは‘It is Introspective, and I Want to Introspect’: Detection, Isolation, and Neurotypicality in Crime Fiction, c. 1891–1940です。日本語に訳すなら「『それは内省的なものだ、そして私は内省したいのだ』——1891年から1940年の犯罪小説における探偵行為、孤立、そして定型発達性」といったところでしょうか。査読制のオープンアクセス誌に掲載された論文で、シャーロック・ホームズ、ロード・ピーター・ウィムジィ、エルキュール・ポアロという三人の名探偵を横断的に扱っている点が、まず目を引きました。

先行研究とのギャップ設定

論文はまず、Samantha WaltonのGuilty but Insane: Mind and Law in Golden Age Detective Fiction(2015)を参照しながら、「探偵は自己の診断者(diagnostician of the self)として機能する」という先行研究の議論を整理しています。その上でSaundersは、これまでの精神分析的な読解が「探偵という役割を演じること」自体が探偵本人に及ぼす心理的影響を十分に扱ってこなかった、と指摘します。この「探偵役を演じる(performing the role of detective)」という切り口が、この論文の一番の軸になっています。

理論的な補助線として使われているのが、Alex WolochのThe One vs. the Many(2003)における「character-space(キャラクター空間)」という概念です。これは、ある登場人物から読み取られる「人間的な個性」と、その人物が物語全体の中で占める「限定された立ち位置」との交差を指すもので、両者は別々に取り出して比較できるものではなく、分離不可能に結びついているとされます。つまり、読者や他の登場人物は、ある人物の「人間性」を、その人物が物語上果たす役割抜きに把握することはできない、という考え方です。Saundersはこれを探偵小説に当てはめ、ホームズ・ウィムジィ・ポアロがそれぞれ「探偵」という立ち位置によってどのように孤立させられているかを論じています。

ホームズ論——ワトスンのフィルターと「自閉症」言説への距離の取り方

ホームズを扱った章でとりわけ興味深かったのは、Sonya Freeman Loftisの2014年の論考(Disability Studies Quarterly掲載)への言及の仕方です。ホームズが今日しばしば「自閉症」的な人物として(時代錯誤的に)語られることについて、Loftisは、架空の人物に遡及的な診断名を与えること自体の限界を指摘しつつ、そうした通俗的な言説が「冷酷」「共感不能」「機械的」といった自閉症をめぐる有害な固定観念を再生産しかねないと批判します。一方で、ドイルの描くホームズ像が「なぜそう読まれやすいのか」という点については、強い関心や社交面での不得手、独特の身振りといった特徴が確かに当てはまることも認めており、単純な「誤ったラベル貼り」として切り捨てているわけではありません。Saundersはこの立場を踏まえた上で、自分の関心は診断ラベルの妥当性そのものではなく、ワトスンという「定型発達的な語り手」のフィルターを通すことで、ホームズが読者からも作中人物からも孤立させられていく過程にある、と論を進めます。

『緋色の研究』でスタンフォードがホームズを「少し冷淡すぎる」と評する場面や、『四つの署名』でワトスンがホームズを「計算機械」と呼ぶ場面などを引きながら、ホームズが「探偵」である前に「人間」として見られることの難しさを丁寧に跡付けている点は、単なるホームズ=自閉症説の紹介記事とは一線を画していると感じました。

ウィムジィ論とポアロ論

ロード・ピーター・ウィムジィについては、貴族という社会的立場そのものが探偵活動を助けると同時に孤立させる二面性が論じられています。さらに第一次世界大戦の心的外傷(Saundersは当時の言葉に近い”PTS”を用い、Freedmanの論文タイトルにある通り”shell shock”とも呼ばれます)と探偵行為との関係について、先行研究は割れています。Ariela Freedmanは探偵行為を一時的な治療、のちにハリエット・ヴェインとの結婚へと引き継がれる回復の契機として読み、Monica Lottはこれに反論して、探偵行為はシリーズを通じて持続する治療であり、結婚はそれに取って代わるのではなく弱さを分かち合える状態を可能にするのだ、と論じます。Saunders自身はこのどちらとも異なる立場を取り、探偵行為を外傷を治す処方箋としてではなく、外傷に対処しながらもその存在をかえって可視化してしまう「症状」として読みます。足を痛めた人の跛行が、歩行を可能にはしても傷そのものを治すわけではなく、むしろ傷の存在を目立たせるのと同じだ、という比喩が印象的でした。ハリエット・ヴェインとの出会いについても、単なる治癒者としてではなく「同じ孤独と外傷を抱えた者同士の共鳴」として読む解釈が示されています。

エルキュール・ポアロについては、ヘイスティングズとの関係がホームズ=ワトスン関係の変奏として位置づけられた上で、「ベルギー人」という国籍そのものが二重の意味で「他者化」されている(フランス人と誤解されることも含めて、Bernthalの言う”twice an outsider”)という指摘がなされます。興味深いのは、この目立つ異質さが単に不利益であるだけでなく、周囲からの嘲笑や油断を誘い、かえってポアロを警戒の外に置くという逆説的な資源としても機能する、という点です。Jamie Bernthalの議論を引きながら、ポアロが自らの「非イギリス性」をこうした形で武器として使いこなす一方で、家庭的な安らぎへの願望とは容易には両立せず、絶えず緊張関係に置かれる——という捻れが、彼の孤独の核にあるという読みです。

所感

全体として、この論文は目新しい一次資料の発掘というよりは、既存の批評(Walton、Loftis、Bernthalなど)を「演技としての探偵性」という統一的な視角のもとに再構成した論考、という印象を受けました。特にウィムジィのPTSD論などは先行研究への依拠が大きく、Saunders自身のオリジナルな実証というより統合の色合いが強いです。とはいえ、三人の名探偵を横断的に「孤立」という共通の主題で扱う視点自体は明快で、Wolochの character-space 概念の応用の仕方も含めて、今後の受容史研究の参照点として押さえておきたい一本だと感じました。

出典

  • Saunders, S 2019 ‘It is Introspective, and I Want to Introspect’: Detection, Isolation, and Neurotypicality in Crime Fiction, c. 1891–1940. Open Library of Humanities, 5(1): 52, pp. 1–24. DOI: https://doi.org/10.16995/olh.461
  • Freeman Loftis, S 2014 The Autistic Detective: Sherlock Holmes and his Legacy. Disability Studies Quarterly, 34(4). DOI: https://doi.org/10.18061/dsq.v34i4.3728
  • Walton, S 2015 Guilty But Insane: Mind and Law in Golden Age Detective Fiction. Oxford: Oxford University Press.
  • Woloch, A 2003 The One vs. the Many: Minor Characters and the Space of the Protagonist in the Novel. Princeton: Princeton University Press.
  • Freedman, A 2010 Dorothy Sayers and the Case of the Shell-Shocked Detective. Partial Answers: Journal of Literature and the History of Ideas, 8(2): 365–387. DOI: https://doi.org/10.1353/pan.0.0176
  • Bernthal, J 2016 Queering Agatha Christie: Revisiting the Golden Age of Detective Fiction. Basingstoke: Palgrave.

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