先日、1913年のアテネで出たホームズのパスティーシュを調べていたとき、比較のためにオスマン帝国の事情を少し調べました。その途中で、ホームズを愛読したと伝えられるスルタン、アブデュルハミト2世の名前に何度も行き当たり、トルコでのホームズの受け入れられ方をきちんと追ってみたくなりました。そこで今回は「世界のシャーロッキアーナ」のトルコ編として、公開されている資料をもとに、オスマン帝国からトルコ共和国にかけてのホームズを追ってみました。分量が多くなったので、前後編に分けます。前編では、ホームズがスルタンの宮殿に届き、やがて宮殿の外へ出ていくまでを扱います。
二つの「乞食」
現在、日本で最初のホームズ翻訳とされているのは「唇のねじれた男」です。「乞食道楽」という題で、雑誌『日本人』第6号から第9号まで、1894(明治27)年1月3日から2月18日にかけて4回連載されました。誌面には原作者名も訳者名も書かれていません。原作がストランド誌に載ったのは1891年12月ですから、約2年後の紹介です。
調べてみて驚いたのは、トルコ語で一般向けに刊行された最初のホームズ翻訳として挙げられている作品も、同じ「唇のねじれた男」だったことです。トルコの翻訳研究者シェフナズ・タヒル=ギュルチャールによると、それは “Dilenci”(乞食)という題で、ファイク・サブリ・ドゥランが訳した54ページの小冊子でした。刊行は1909年とされています(トルコの探偵小説史研究者エロル・ユイェパザルジュは、一般の読者がドゥランの訳を読んだのは1908年の終わりだとしています)。同じ年のうちに『バスカヴィル家の犬』「赤毛組合」「技師の親指」の訳が続きます。
遠く離れた二つの国で、最初に活字になったホームズがどちらも「乞食」の話だったわけです。同じ作品が選ばれたのが偶然なのか、それとも何か理由があったのかは、私が見た資料からは分かりませんでした。
違いが大きいのは時期です。原作から日本語での掲載までは約2年でしたが、トルコ語での一般向け刊行は1908年末から1909年、約17〜18年後でした。タヒル=ギュルチャールは、トルコでは翻訳探偵小説の出版が1903年に止まり、1908年の第二次立憲政の宣言のあと、比較的自由な空気のなかで再び動き出したと書いています。原因は政治情勢の悪化と、書き手にも訳者にも及んだ厳しい検閲でした。”Dilenci” は、その再開後の波のなかで出た一冊ということになります。
ただ、検閲だけでこの空白を説明することはできません。同じ論文によれば、1903年より前にもトルコ語の翻訳探偵小説は出ていましたが、その中心はフランスの作家でした。少なくとも同論文が挙げる刊行史では、出版が止まる前にも、ホームズのトルコ語の刊行訳は確認されていません。一方で、次の節で見るとおり、スルタンのためのドイル作品の翻訳は、1909年より前から宮殿の中で作られていたようです。
会えなかったスルタン
トルコとホームズの関係を考えるとき、私がまず思い出したのは正典の一節でした。ホームズ自身が筆をとった「白面の兵士」で、依頼人ドッドの話を聞き終えたあと、ホームズは当時抱えていたほかの仕事に触れています。延原謙訳ではこうなっています。
その上トルコ皇帝から委託された事件もあって、このほうは放っておくと政治上由々しい結果を来すおそれがあるから、火急に処置を講ずる必要があった。
原文では “a commission from the Sultan of Turkey” です。ホームズの手帳によれば、ドッドの来訪は「一九〇三年一月、ボーア戦争の終結直後」でした。この時期のスルタンはアブデュルハミト2世です。ホームズはこの依頼の中身を一言も明かしていません。
では、ワトスンの文学エージェントであるドイルとスルタンのあいだには、実際にどんな接点があったのでしょうか。1907年9月にジーン・レッキーと再婚したドイルは、新婚旅行の途中でコンスタンティノープルに立ち寄っています。ここについては、性格の異なる三つの資料が残っていました。
1.新聞:The Times(1907年11月4日)
The Times の宮廷欄は、ドイル夫妻が短い滞在中に金曜日のセラムルク(スルタンが礼拝へ向かう儀式)に参列し、スルタンがドイルにメジディエ勲章二等を、夫人にシェファカト勲章二等を授けたと伝えています。授章はロイター電によれば「陛下が英文学に寄せる関心の証」とされました。
2.本人の回想:『回想と冒険』(1924年)第22章
ドイル自身は、セラムルクで染めた顎ひげのスルタンを見たこと、馬車のあとを将校や官吏が走って追う光景に驚いたことを書いたうえで、こう続けます。
It was Ramadan, and the old Sultan sent me a message that he had read my books and that he would gladly have seen me had it not been the Holy month. He interviewed me through his Chamberlain and presented me with the Order of the Medjedie, and, what was more pleasing to me, he gave the Order of the Chevekat to my wife.
私訳です。「ラマダンの時期で、老スルタンは、私の著書を読んでおり、聖月でなければ喜んで会っただろう、という伝言をよこした。スルタンは侍従を介して私とやり取りし、私にメジディエ勲章を授けた。そして、私にはそれ以上にうれしかったことに、妻にシェファカト勲章を授けた。」
シェファカトは「慈悲」の勲章で、コンスタンティノープルに着いて以来、夫人が街の飢えた野良犬に餌をやり続けていたから、これほどふさわしい贈り物はなかった、とドイルは書き添えています。
3.同行者の回想:ウッズ『Spunyarn』(1924年)
三つ目は、オスマン海軍に長く仕えた英国人提督ヘンリー・ウッズ(ウッズ・パシャ)の回想録です。第2巻114ページで、ウッズはユルドゥズ宮殿にヨーロッパの新聞や本を訳す翻訳係が常にいたことを述べ、スルタンについてこう書いています。
He was very fond of detective stories, and particularly liked those of Sir Conan Doyle. He had them all translated for him, and when, some years ago, the creator of “Sherlock Holmes” paid a visit to Turkey with his wife and accompanied me to the “Selamlik,” he decorated him with a high award of the Order of the “Mejidieh.”
私訳です。「スルタンは探偵小説を大変好み、とりわけサー・コナン・ドイルの作品を気に入っていた。それらをすべて自分のために翻訳させていた。また何年か前、『シャーロック・ホームズ』の作者が夫人とトルコを訪れ、私に同行してセラムルクに出席した際には、スルタンは彼に高位のメジディエ勲章を授けた。」
三つの資料が一致すること、しないこと
三つの資料に共通するのは、ドイルがセラムルクに出席したことと、勲章を授けられたことです。ドイル自身は、そこでスルタンの姿を見たと書いています。一方で、スルタンが夫妻を私的に引見したと書いている資料は一つもありません。ドイル本人は、会えなかった理由まで書き残しています。訪問についてのウッズの記述も、セラムルクへの同行と授章を伝えるもので、私的な引見には触れていません。
それでも「スルタンがドイルを招いた」「迎えた」という話は、後年の文献にたびたび現れます。オスマン帝国のホームズ受容を論じた研究にも、そのように読める記述があります。ユイェパザルジュは、スルタンがドイルを招いたという話の出どころを、アルメニア人作家イェルヴァント・オディアンが1911年に出した小説『アブデュルハミトとシャーロック・ホームズ』だとしています。ドイルの訪問は、ウッズの勧めによる新婚旅行の途中のもので、招待ではなかったというのが彼の見方です。この小説については後編で取り上げます。
資料ごとに、言えることの範囲も違います。スルタンの探偵小説好きと、ドイル作品を翻訳させていたことを具体的に述べているのはウッズです。一方、ドイル自身は、スルタンから「私の著書を読んでいる」という伝言を受けたとしか書いていません。ウッズの回想は訪問から十数年後に刊行されたもので、翻訳させた作品の範囲は、この記述だけでは確定できません。また、ウッズが翻訳係の一人から直接聞いたとしているのはマキアヴェッリの『君主論』を訳したという話で、ドイル作品を誰が訳したかは書かれていません。
最後に「白面の兵士」に戻ります。この作品が発表されたのは1926年で、アブデュルハミト2世は1918年に亡くなり、オスマン帝国もすでにありませんでした。ホームズが1903年当時にスルタンからの依頼を抱えていたことと、ドイルが1907年にスルタンとの直接の会見を果たせなかったこと。二つのあいだにつながりがあるのかどうかは、資料からは分かりません。
宮廷と市場
ウッズは、スルタンがドイル作品を「すべて自分のために翻訳させていた」と書いていました。その宮殿の中の様子を、ユイェパザルジュが2024年に公開した記事が詳しく伝えています。
ユルドゥズ宮殿には翻訳室があり、その本来の仕事は、世界の新聞や雑誌に載ったトルコやスルタンについての記事を訳すことでした。探偵小説の翻訳は、それとは別に行われていたようです。取り仕切っていたのはスルタンの衣装係長で乳兄弟でもあったイスメト・ベイで、訳された探偵小説は、夜、床についたスルタンにイスメト・ベイが読んで聞かせたといいます。ユイェパザルジュによれば、こうして作られた探偵小説の翻訳は600点近くにのぼります。スルタンの蔵書は1924年にイスタンブール大学へ移され、現在は同大学の稀覯書部門にあるそうです。
ホームズが宮殿に届いた経路を示す文書も、ユイェパザルジュが紹介しています。儀典長イブラヒム・パシャの覚書で、日付はルーミー暦の「14 Haziran 321」です。ルーミー暦はユリウス暦の月日を使うので、西暦に直すと1905年6月27日になります。覚書によれば、ドイルの「シャーロック・ホームズの冒険」が英国から届き、英国大使館の首席通訳レンプを通じて宮殿に渡されました。大使は一つの話に鉛筆で印をつけ、それを先に訳すよう勧めていたそうです。どの話に印がついていたのかは、記事には書かれていません。
一般の読者が置かれていた状況は、まったく違いました。1節で見たとおり、トルコ語の翻訳探偵小説の出版は1903年から止まっていました。宮殿の中でスルタンがドイル作品の翻訳を読み聞かせてもらっていたころ、外の読者はホームズをトルコ語の本で読むことができなかったことになります。
この状態が変わったのは1908年です。7月に憲法が復活して第二次立憲政が始まり、出版は息を吹き返しました。その年の終わりから翌1909年にかけて、ドゥラン訳の “Dilenci” をはじめとするホームズの訳が本屋に並びます。タヒル=ギュルチャールによれば、トルコでホームズ人気に火がついたのは、1909年にイスタンブールで芝居「シャーロック・ホームズ」が上演されたあとだったとされます。論文では作者を “Pierre de Coursel” と表記しています。1907年12月にパリのアントワーヌ座で初演された、ピエール・ドゥクルセルによる翻案劇(ジレットの『シャーロック・ホームズ』がもと)のことだろうと私は考えていますが、イスタンブールでの上演を伝える資料そのものは確かめられていません。
1909年4月、アブデュルハミト2世は退位させられました。日本では、ホームズは最初から一般向けの雑誌の読み物として届きました。オスマン帝国では、まず宮殿の中で一人のスルタンのために訳され、その外では、スルタンの統治が終わるころになってようやく出回り始めました。この違いは、1節で見た時期のずれの背景の一つだと私は考えています。
後編では、宮殿の外へ出たホームズが、スルタンを裁く風刺小説の主人公になり、警察官になり、トルコの怪盗に出し抜かれるようになるまでを追います。
参考文献
- 樽本照雄「コナン・ドイル作「唇のねじれた男」の日訳と漢訳」『大阪経大論集』第51巻第6号、2001年3月
- 大空社『明治翻訳文学全集〈新聞雑誌編〉』第8巻「ドイル集」収録案内
- 国立国会図書館「第一話 日本における探偵小説の始まり」(本の万華鏡)
- Şehnaz Tahir-Gürçağlar, “Sherlock Holmes in the Interculture: Pseudotranslation and Anonymity in Turkish Literature,” in Anthony Pym, Miriam Shlesinger and Daniel Simeoni (eds.), Beyond Descriptive Translation Studies, John Benjamins, 2008
- アーサー・コナン・ドイル「白面の兵士」延原謙訳『シャーロック・ホームズの事件簿』新潮文庫(原文:Project Gutenberg, The Case-Book of Sherlock Holmes)
- “Sir Arthur and Lady Conan Doyle Decorated by the Sultan,” The Times, 4 November 1907, p. 8(The Arthur Conan Doyle Encyclopedia 所収)
- Arthur Conan Doyle, Memories and Adventures, 1924, Chapter XXII
- Henry F. Woods, Spunyarn from the Strands of a Sailor’s Life Afloat and Ashore, Hutchinson, 1924, Vol. II, p. 114
- Erol Üyepazarcı, “Abdülhamit ve Sherlock Holmes,” Dedektif Dergi, 25 September 2024
- “Scherlock Holmes“(Pierre Decourcelle の翻案劇), The Arthur Conan Doyle Encyclopedia

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