2026年10月20日:他分野はホームズをどう扱ってきたか ゲーム理論 前編:カンタベリーで降りる確率は60%

シャーロッキアン日記

先日、アテネ大学(ギリシャ)の研究室が2026年3月に公開した、ある小冊子を読みました。題名はThe Fiction to Action Decision Manual。シャーロック・ホームズ、モリアーティ教授、そしてフー・マンチュー博士の3人を「意思決定の原型」に見立て、そこから現代の意思決定の枠組みを組み立てようという試みです。

読みながら気になったのは、巻末の参考文献にフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの『ゲームの理論と経済行動』(1944年)が挙がっていたことでした。ホームズとゲーム理論の組み合わせは、実はこれが初めてではありません。80年以上前、ゲーム理論の出発点となったこの古典そのものに、ホームズとモリアーティが登場しています。それなのに、小冊子の本文にはその場面が一度も出てきません。

そこで今回は、この小冊子をきっかけに「ゲーム理論はホームズをどう扱ってきたか」を、遡って調べてみることにしました。分量が多くなったため、前後編に分けます。前編では、ゲーム理論の古典がホームズをどう料理したかを、背景の理論と正典の本文に照らして読み直します。後編で、冒頭の小冊子に戻ります。

新シリーズ「他分野はホームズをどう扱ってきたか」について

本題に入る前に、少しだけ前置きをさせてください。ホームズは、シャーロッキアン研究の外でもしばしば題材にされてきました。このブログでもこれまでに、社会科学の教材としてのホームズ(Ward & Orbell「社会科学者としてのシャーロック・ホームズ」)や、分析哲学が虚構名の例としてホームズを使う理由(クリプキほかの議論)を取り上げてきました。

こうした他分野での使われ方を並べてみると、おおよそ次の4つの型に分けられそうです。

  • 方法のモデル:ホームズのやり方に倣う(科学的方法の教材、思考訓練など)
  • 例題:ホームズを使って理論を説明する(虚構名の意味論、今回のゲーム理論など)
  • 分析対象:理論を使ってホームズを説明する(認知心理学、ベイズ統計による再構成など)
  • 人物類型:ホームズの人物像を抽象化して別の目的に使う(意思決定マニュアルなど)

これらは排他的な区分ではありませんが、今後このシリーズでは、各分野の扱いをこの4つの型に照らして整理していくつもりです。今回の前編で扱うゲーム理論は「例題」、後編の小冊子は「人物類型」にあたります。

カンタベリーの場面をおさらいする

舞台は「最後の事件」(FINA)です。モリアーティ一味の一斉検挙を月曜日に控え、ホームズはワトスンを連れて大陸へ逃れようとします。ホームズは老いたイタリア人司祭に変装してヴィクトリア駅から大陸行きの急行に乗り込み、列車が動き出したところで、ホームに現れたモリアーティの姿を見ます。

車内でワトスンは「これで撒いた」と安心しますが、ホームズはそう考えません。ここでホームズは、モリアーティを自分と同等の相手として扱っています。

「モリアティは僕におとらぬ知力を備えているといっといたのに、君にはその意味がほんとにはわかっていないとみえるね。」

ホームズの推論は「自分が追う側ならどうするか」から始まります。答えは「特別列車を出させる」です。この急行はカンタベリーに一度停まり、ドーヴァーでは船の接続でいつも15分は待たされる。その間に特別列車に追いつかれる。そこでホームズは、カンタベリーで降りて陸路ニューヘイヴンへ向かい、そこから大陸へ渡ると決めます。モリアーティは「僕だったらやるのと同じことをする」はずだから、パリまで行って荷物を見張るだろう、という読みです。

二人がカンタベリーで降りると、まもなく一両きりの特別列車が轟音をたてて駅を通過していきました。それを見送ったホームズはこう言います。

「あの男の知恵も底がしれているね。僕の考えることを考えついて、それによって行動したら、それこそ大したものなんだがねえ」

二人はニューヘイヴン行きの列車を1時間待ち、その晩のうちにブリュッセルに着きます。ちなみに、ディエップへ渡るというのは車内でホームズが語った計画で、実際に通った港の名前は本文には出てきません。

私がこの場面で面白いと思うのは、ホームズが相手を「自分と同等」と認めておきながら、結果については「底がしれている」と評していることです。相手が自分の推理をさらにもう一段読んでいれば、カンタベリーに来ていたはずです。そうなれば、自分はドーヴァーへ行くべきだったことになる。この「読み合い」の構造に、80年前の経済学者が目をつけました。

モルゲンシュテルンの「終わらない読み合い」

オスカー・モルゲンシュテルン(1902–1977)は、ウィーン大学の経済学者でした。彼は1928年の著書『経済予測』(Wirtschaftsprognose)の中で、すでにこの場面を取り上げています。のちのフォン・ノイマンとの共著の脚注に、その頁(p.98)が明記されています。

滋賀大学の酒井泰弘氏の論文(2021年)によれば、モルゲンシュテルンの議論はおおよそ次のようなものでした。ホームズはモリアーティの裏をかいて途中駅で降りた。しかし、もしモリアーティがもっと賢くて、ホームズの考えを読んでいたら、途中駅へ向かったはずだ。そうなればホームズはそれも読んでドーヴァーへ行くべきで、モリアーティはさらにそれを読んで……。この連鎖には終わりがありません。読み合いが続く限り、二人は動けなくなるか、知力の劣る方がヴィクトリア駅で降参するしかない、というのです(モルゲンシュテルン1935年論文の英訳を酒井論文が引用したものによります)。

モルゲンシュテルンはこの例を、1935年の論文「完全予見と経済均衡」でも繰り返しました。経済学の均衡理論は、人々が将来を正しく予見できることを前提にしがちです。しかし相手も自分を予見しているとなると、予見の連鎖は閉じず、均衡と両立しない。彼はこれを解けないパラドクスとして提示しました。経済学の問いを説明するのに、モルゲンシュテルンはホームズとモリアーティの追跡劇を選んだわけです。

1944年の答え:混合戦略

このパラドクスに数学の側から答えを出したのが、数学者ジョン・フォン・ノイマン(1903–1957)でした。フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンが1944年に刊行した『ゲームの理論と経済行動』(以下、本文では『ゲームの理論』と略します)の第4章第18節に、問題の場面が「シャーロック・ホームズの冒険の一挿話」として登場します。以下の頁は、私が確認した1953年の第3版によります。

カンタベリーの例題を読む前に、最低限の用語を整理しておきます。

押さえておきたい用語

  • 2人ゼロ和ゲーム:二人のプレイヤーがいて、一方の得がそのまま他方の損になる状況です。ホームズの生還はモリアーティの失敗、モリアーティの成功はホームズの死なので、追跡劇はこの型に収まります。
  • 純粋戦略:選択肢の中から一つを確定的に選ぶことです。「カンタベリーで降りる」がその例です。
  • 混合戦略:選択肢を、決めておいた確率に従ってくじで選ぶことです。「60%の確率でカンタベリー」がその例です。
  • 鞍点:純粋戦略だけで、双方とも相手の出方を知っても選択を変えたくならない組み合わせのことです。鞍点があれば、ゲームは純粋戦略で決着します。
  • ミニマックス定理:フォン・ノイマンが1928年の論文で証明した定理です。有限の2人ゼロ和ゲームでは、混合戦略まで認めれば、一方が「最悪でもこれだけは確保できる」値と、他方が「最悪でもこれ以上は与えない」値が必ず一致します。この一致した値を「ゲームの値」と呼びます。

モルゲンシュテルンの「終わらない読み合い」は、鞍点のないゲームを純粋戦略だけで考えようとしたときに起きる現象だと言えます。相手がどちらを選ぶか決め打ちすると、必ずその裏をかかれる。ミニマックス定理の答えは、「どちらを選ぶかを、相手に読まれない確率で決めればよい」というものでした。

カンタベリー問題の設定

『ゲームの理論』の設定は次のとおりです(pp.176–177)。ホームズは、自分を見たモリアーティが特別列車で追ってくるものと考えている。ホームズにはドーヴァーまで行くか、唯一の途中駅カンタベリーで降りるかの二択があり、モリアーティにも同じ二択がある。モリアーティの知力は、この二つの可能性を見通すのに十分だと仮定する。二人は相手の選択を知らずに降りる駅を選び、同じホームに降り立てばホームズは確実に殺され、ドーヴァーに無事着けばホームズは逃げ切れる。

著者たちはこの状況に、モリアーティ側から見た点数(利得)を次のように与えました(p.177、図29)。

モリアーティの利得(『ゲームの理論』第3版 p.177 の図29による)
モリアーティ\ホームズ ドーヴァーへ カンタベリーで降りる
ドーヴァーへ 100(捕捉) 0(引き分け)
カンタベリーで降りる −50(ホームズの逃亡) 100(捕捉)

同じ駅で会えば100。ホームズがドーヴァーから大陸へ逃げれば、モリアーティの敗北なので−50。ただし、得点の大きさは捕捉より小さく見積もられています。そして、ホームズがカンタベリーで降り、モリアーティがドーヴァーへ行った場合は、「ホームズは途中駅でモリアーティを逃れるが、大陸へは渡れない」ので「引き分け」の0とされています。この最後の設定は、あとで正典と照らし合わせるときの要になります。

この表には鞍点がありません。モリアーティがドーヴァーに決め打ちすればホームズはカンタベリーで降り、カンタベリーに決め打ちすればホームズはドーヴァーへ行く。まさにモルゲンシュテルンの読み合いです。

解いてみる

モリアーティがドーヴァーへ行く確率を p とします。ホームズがドーヴァーへ行った場合のモリアーティの期待利得は 100p − 50(1 − p) = 150p − 50 です。ホームズがカンタベリーで降りた場合は 100(1 − p) です。ホームズがどちらを選んでもモリアーティの期待利得が変わらないように p を選ぶと、150p − 50 = 100 − 100p から、p = 3/5 となります。

同じように、ホームズがドーヴァーへ行く確率を q とすると、100q = 100 − 150q から q = 2/5 です。つまり答えは次のとおりです。

  • モリアーティは60%の確率でドーヴァーへ、40%でカンタベリーへ。
  • ホームズは60%の確率でカンタベリーで降り、40%でドーヴァーへ。

このときモリアーティの期待利得、つまりゲームの値は40になります。著者たちもこの数字を示し、モリアーティは60%でドーヴァーへ、ホームズは60%で途中駅で降りるべきだと結論しています(p.178)。私も手元で計算し直して、同じ値になることを確かめました。

「48%死んだも同然」とは何の数字か

この例題でいちばん有名なのは、本文よりも p.178 の脚注のほうかもしれません。要旨は次のとおりです。

ドイルの語りは混合戦略を無視して、実際に起きたことを述べている。ホームズは途中駅で降り、モリアーティの特別列車がドーヴァーへ向かうのを勝ち誇って見送る。各自に「確率の高いほうの行動」を割り当てる限りで、これは純粋戦略に限った中での最善の解であり、無理もない(excusably)。しかし、これでホームズの完全勝利になるかのように描かれるのは誤解を招く。勝負の値は明らかにモリアーティに有利だからだ。われわれの結果によれば、ホームズはヴィクトリア駅を列車が出た時点で「48%死んだも同然」(as good as 48% dead)である。

この48%は、二人がそれぞれ上の確率で独立にくじを引いたときに、同じ駅で鉢合わせる確率です。内訳を表にしてみます。

混合戦略を実行したときの4つの結果
モリアーティ ホームズ 確率 結果
ドーヴァー ドーヴァー 0.6 × 0.4 = 24% ホームズ死亡
カンタベリー カンタベリー 0.4 × 0.6 = 24% ホームズ死亡
ドーヴァー カンタベリー 0.6 × 0.6 = 36% 引き分け(ドイルが書いた展開)
カンタベリー ドーヴァー 0.4 × 0.4 = 16% ホームズ大陸へ逃亡

死亡は24%+24%で48%、生き残るのは52%です。半分以上生き残るのに、なぜ「モリアーティ有利」なのでしょうか。理由は、利得の表が生死だけでなく、結果の重みを点数にしているからです。モリアーティにとって捕捉は+100、逃亡は−50、引き分けは0なので、期待値は 100×0.48 − 50×0.16 = 40 とプラスになります。ゲームの値40は勝率でも死亡率でもなく、この点数の期待値です。ここは混同しやすいので、記事でも区別しておきます。

なお、もう一つ見逃せないのが p.176 の脚注です。著者たちはそこで、この場面を「実生活のさまざまな対立の範型」として論じた文献として、モルゲンシュテルンの1928年の著書を挙げています。そのうえで、モルゲンシュテルン自身はもはや当時の悲観的な見解(読み合いは解けないという結論)を維持しない、とわざわざ書いています。16年越しの自己回答というわけです。48%の脚注も、旅そのものが無用で出発前に勝敗は決まる、という1928年の著書(p.98)の示唆と比べるよう読者に促しています。

脚注への批判

「48%死んだも同然」という言い方には、経済学者からも異論が出ています。ニュージーランドのカンタベリー大学のマイケル・カーターは、1988年の討議論文「シャーロック・ホームズの冒険:48%の解決」で、この表現を取り上げました。カーターによれば、実際の一回の勝負でホームズは生きるか死ぬかのどちらかで、「48%死んでいる」という状態はありえない。ドイルが書いた結末は、ゲーム理論の立場からも非難できない、というのです。

ただ、私はこの批判を「一回限りの勝負だから確率は無意味」とまでは受け取らないほうがよいと考えます。列車が出る前の時点で48%の危険を見積もること自体には意味があります。問題は、その事前の見積もりと、物語で実際に起きた一つの結果とを、脚注が一文の中で比べてしまっている点にあるのだと思います。

前述の酒井氏の論文は、こうした一回限りの局面でくじを引くことの不自然さを指摘しています。そして、「最後の事件」をリスク(確率が分かっている状況)のもとでのゲーム、「空き家の冒険」を不確実性(確率すら分からない状況)のもとでのゲームとして対比しています。経済学の内側でも、この例題は80年かけて読み直され続けているわけです。

正典に戻すと見えてくること

ここで、シャーロッキアンとして正典に戻ってみます。気になるのは、ドイルが書いた展開(モリアーティはドーヴァーへ、ホームズはカンタベリーで下車)が、表では「引き分け」の0とされていたことです。著者たちはこの組み合わせを、ホームズはモリアーティを逃れるが大陸へは渡れない、と説明していました。

しかし正典のホームズは、カンタベリーで降りたあと、ニューヘイヴン行きの列車を1時間待ち、その晩のうちにブリュッセルに着いています。大陸へは、しっかり渡っているのです。カンタベリー下車には別の経路の逃走が続いていて、ホームズ自身、車内でその経路まで計画していました。

もちろん、これでホームズの「完全勝利」になるわけではありません。追跡はスイスまで続き、ライヘンバッハの滝で決着します。それでも、『ゲームの理論』が「引き分け」と定義した帰結が、正典では「逃走の継続」として描かれていることは指摘しておいてよいと思います。仮にこの組み合わせをホームズの逃亡と同じ扱いにすれば、表の数字が変わり、答えも変わります。数理モデルとして単純化するのは当然ですが、何を捨てたのかは、正典の側から確かめられるわけです。

一方で、モデルが正典と矛盾していない点もあります。二人は実際には同時に降りる駅を選んだわけではありませんが、モリアーティには、ホームズがどこで降りたかを知る手段はなかったはずです。行動の時刻がずれていても、相手の選択が見えないなら、戦略的には同時に選ぶのと同じです。著者たちの「相手の選択を知らずに選ぶ」という仮定は、この場面の性格をよく捉えていると思います。

モデルが落としたものは、ほかにもあります。その場でモリアーティを逮捕させるという選択肢を、ホームズは「三か月の仕事が無駄になる」として退けています。モリアーティはパリまで行って荷物をつきとめ、そこで見張るだろうという、相手の次の手の読みもあります。そもそもこの逃避行の目的は、月曜日の一斉検挙まで時間を稼ぐことでした。正典のホームズの推論は、二駅の選択だけでなく、いくつもの手が連なった多段階のゲームとして書かれているのです。

延原訳から消えた「ゲーム」

今回、延原謙訳と原文を突き合わせていて、思いがけないことに気づきました。原文の「最後の事件」には、game という語が4回出てきます。ところが延原訳には、一度も「ゲーム」「勝負」といった訳語が出てこないのです。

「最後の事件」の game/duel と延原訳
原文 話し手 延原訳
I know every move of your game. モリアーティ 「君のやることは一から十まで私にはわかっている。」
It has been a duel between you and me モリアーティ 「これは君と私との決闘だ。」
playing a double-handed game with me ホームズ (訳出なし)
a game at which two may play ホームズ 「こっちだって、むざむざとは殺されやしない」
put the game in their hands ホームズ 「袋のねずみも同様にしてから、警視庁の手に渡してきた」

duel だけは「決闘」と訳されていますが、game はすべて意訳されるか省かれています。最後の例の game は「獲物」の意味なので、「袋のねずみ」は見事な訳だと思います。とはいえ全体として見ると、モリアーティもホームズも自分たちの対決を「ゲーム」と呼んでいることが、日本語の定番訳では見えなくなっているのです。

モルゲンシュテルンやフォン・ノイマンが、この場面をゲームとして読みたくなった理由の一端は、こうした原文の語彙にもあったのではないか。私はそう推測しています(これはあくまで私の推測で、二人がこの語に触れた記述は確認していません)。日本語で読んできた私たちには、その手がかりがそもそも見えにくかった、ということになります。

ホームズの判断は合理的だったのか

では、カンタベリーで降りたホームズの判断は、ゲーム理論から見て「間違い」だったのでしょうか。私は、次の三つの問いを分けて考えるのがよいと思います。

  1. 結果として成功したか。成功しました。モリアーティはドーヴァーへ行き、ホームズは逃れました。
  2. 知力の同等な相手に対して、安全を保証する選び方だったか。『ゲームの理論』の答えは「否」です。相手が自分と同じだけ読めるなら、どちらかに決め打ちするのではなく、60対40のくじで選ぶのが最善になります。
  3. このモリアーティという特定の相手についての判断として、妥当だったか。これは別の問題です。ホームズの推論は「相手は、自分が追う側ならすることをする」という一段の読みでした。この特定の相手については、その読みが当たったわけです。

二つ目と三つ目の違いは、ホームズの二つの台詞の違いにそのまま重なると思います。「僕におとらぬ知力」は相手の能力一般についての評価です。「知恵も底がしれている」は、その日その場で相手が実際に何段まで読んだかについての評価です。両者は矛盾しているのではなく、能力の評価と、個別の局面で実行された推論の評価とが別物だということを示しているのだと、私は読んでいます。モリアーティがもう一段読んでいれば「大したもの」だった、というホームズの言葉は、まさにモルゲンシュテルンが問題にした読み合いの入口に立っています。

ゲーム理論の古典は、ホームズを「名探偵」としてではなく、名前を入れ替えても成り立つ一人のプレイヤーとして扱いました。ホームズの個性を捨てたからこそ、読み合いの構造だけを取り出して解くことができた。そして、その捨てたものを拾い直すと、正典の側からもモデルの側からも、新しい問いが見えてきます。これが、前編を書き終えての私の感想です。

後編の予告

後編では、冒頭の小冊子 The Fiction to Action Decision Manual(2026年)に戻ります。この小冊子は、ホームズをプレイヤーとしてではなく、「知の原型」という人物類型として扱っています。1944年の古典が捨てた「個性」を、今度は主役に据えたわけです。その試みが何を取り出し、何をこぼしているのかを、推論の理論(アブダクションとベイズ推論)の系譜と合わせて検討します。

なお今回は、『ベイカー・ストリート・ジャーナル』や『シャーロック・ホームズ・ジャーナル』などシャーロッキアン誌の側で、この例題がどう論じられてきたかまでは調べていません。ご存じの論考があれば、ぜひ教えてください。

参考文献

正典

ゲーム理論

  • John von Neumann and Oskar Morgenstern, Theory of Games and Economic Behavior, Princeton University Press, 1944(第2版1947、第3版1953)。本稿の頁は第3版によります(第4章 §18.4.4、pp.176–178)。
    • 邦訳:銀林浩・橋本和美・宮本敏雄監訳『ゲームの理論と経済行動』東京図書、全5巻、1972–1973年。
    • 邦訳:同監訳『ゲームの理論と経済行動』ちくま学芸文庫、全3巻、2009年(例題を含む第4章は第Ⅰ巻に収録)。
    • 邦訳:武藤滋夫訳『ゲーム理論と経済行動 刊行60周年記念版』勁草書房、2024年。
  • John von Neumann, “Zur Theorie der Gesellschaftsspiele,” Mathematische Annalen 100 (1928): 295–320.
  • Oskar Morgenstern, Wirtschaftsprognose, Wien: Springer, 1928.
  • Oskar Morgenstern, “Vollkommene Voraussicht und wirtschaftliches Gleichgewicht,” Zeitschrift für Nationalökonomie 6 (1935): 337–357.(『ゲームの理論』の脚注では1934年と表記されています。)

研究・解説

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