2026年7月15日:The Gameはどのように定着したのか ― Vera Tobin『Ways of Reading Sherlock Holmes』を読む

シャーロッキアン日記

この日記でも何度か触れていたと思いますが、シャーロッキアンという言葉には広義にはホームズ愛好家全般を指す言葉である一方、狭義には、「ホームズとワトソンは実在し、ドイルは文学代理人である」という前提を共有し、その設定で議論を楽しむシャーロッキアン、いわゆる”the Game”を愉しむ人を指す意味も有しています。

この様式がなぜ生まれ、どのように今の形に定着したのかを解き明かそうとしたのが、Vera Tobin(執筆当時メリーランド大学、現在はケース・ウェスタン・リザーブ大学認知科学部准教授)による論文「Ways of Reading Sherlock Holmes: The Entrenchment of Discourse Blends」です。

Language and Literature誌15巻1号(2006年、73-90頁)に掲載され、Poetics and Linguistics Association(PALA)の2006年賞を受賞しています。いつものように論文サイトであるAcademiaのキーワード設定によるメールでのお知らせで知ることができました。いつもどういう基準でメールが送られてくるのか分からず、今回もかなり昔の論文となりますが、シャーロッキアンの歴史からすれば、これぐらい前のものでも趣旨としてはまったく古びていないものと思います。

 

二つの「信じる」読者

論文はまず、ホームズ物語が1880年代末に発表されて以来、読者・編集者・広告主までもがホームズをあたかも実在の人物であるかのように語ってきた事実から始まります。コナン・ドイルの伝記作者マーティン・ブースによれば、英国郵便局には少なくとも1950年までホームズ宛の手紙が届いていたとのこと。(1930年代にベイカー街が北に延伸し、221番地ができたころから現在に至るまで継続的に手紙は届いています。2002年まではAbbey Nationalビルが秘書を雇って返信を書いており、その後シャーロック・ホームズ博物館に郵便物が届くようになりましたが、このあたりの経緯はこちらの記事にも少し書いています。)

ドイル自身、1890年の時点で、フィラデルフィアのある煙草屋が編集者J・M・ストッダートに宛てて「ホームズが140種類の煙草の灰の違いを論じた研究書はどこで手に入るか」と問い合わせてきたことに驚いた、というエピソードも紹介されます(Green, 1986)。

さらにブース自身が体験した逸話として、インド・ヒマラヤ山麓のナイニタールで宿の主人が「シャーロック・ホームズはここに来たことがある」と真顔で語った——という挿話も引かれています。

Tobinはここで、文学史家マイケル・セイラー(Michael Saler)の用語を借り、こうした素朴な信奉者を「naïve believer」、一方でホームズとワトソンの実在を承知の上であえて「信じたふり」を楽しむシャーロッキアンたちを「ironic believer」と呼び分け、以降この用語を採用しています。

 

理論的枠組み

本論文での分析の道具立ては、Fauconnier and Turnerの概念統合(conceptual blending)理論とのこと。(ここは専門外なので、正確に理解できていないかもしれません。AIの力を借りても難しい・・・。)

読者が物語を読む行為自体、「誰が誰に何を語っているのか」という談話状況(discourse situation)に関する精巧な概念ブレンドの構築だとTobinは論じます。演劇で俳優とハムレットが一体として認識されるように、通常の読者はコナン・ドイルという著者と語り手ワトソンを「ワトソンを演じる著者」という一つのブレンドとして処理している——素朴な信奉者の誤読も、シャーロッキアンの信じたふりも、この同じ仕組みの上に成立する別々の変奏だ、という立て付けです。

論文はここで、認知心理学の知見(シミュレーション意味論やサスペンス研究)を参照しつつ、フィクションへの「没入」が「没入的でありながら非没入的」という逆説的な状態であることを図解を用いて示します。

歴史家ジョナサン・ローズの研究も引かれ、19世紀イギリスの労働者階級読者が聖書以外にほとんど読書経験を持たないまま廉価版のホームズ物語に接し、聖書で培った「額面通り信じる」読み方をそのまま適用してしまった経緯が、素朴な信奉者を生んだ文化的背景として位置づけられます。

この点はあまり意識できていなかったポイントかもしれません。キリスト教徒にとっての聖書の読み方や、労働者階級による読書経験が始まった時代であることなど、現代日本にいるとなかなか気づけないポイントかもしれません。

 

ノックスのパロディからルーティン化へ

論文後半の主役は、ロナルド・ノックスが1911年に行った講演「シャーロック・ホームズ文献の研究」(1912年発表)です。

今日のシャーロッキアン界隈でジャンルの嚆矢とみなされているこの論文は、聖書「高等批評」の分析様式をホームズ物語に転用したパロディで、過剰に格式張った文体や誇張された抑揚、架空の学者への言及といった「これは冗談です」という合図(Haimanのいう”metamessage”)に満ちています。Tobinはこの構造を、ブレンドが元の入力空間(学術批評そのもの)への風刺として跳ね返る「逆方向投射」として分析します。

タイトルにある”entrenchment”(定着・慣習化といった意味)が、論文の核心です。Tobinは、ノックスに見られた明確なアイロニーの標識が、BSJ誌の2000年の論考などと比較し、後年のシャーロッキアン言説では次第に希薄化し、淡々とした学術論考に近づいていく様を示します。

背景には、1946年のエドガー・W・スミスによるThe Baker Street Journal(BSJ)創刊などを経たコミュニティの制度化があり、一度解釈枠組みが確立すると、個々の論考はもはや「冗談として成立させる」必要がなくなる、というのがTobinの説明です。これを彼女は、”goodbye”が”God be with you”の含意が薄まっていったような、言語学でいう意味の漂白(semantic bleaching)になぞらえています。

つまり、 entrenchment(定着)とは、単に習慣化するという意味ではなく、ある解釈の枠組みが共同体の中で何度も繰り返されることで、もはやその前提をいちいち説明しなくても共有される状態といえるでしょう。初期のノックスは「これは冗談ですよ」という合図を数多く置いていましたが、BSIやBaker Street Journalによって共同体が形成されると、その内部では”The Game”という前提自体が共有されるようになり、もはや論文ごとに「これは冗談です」と示す必要がなくなっていきました。この変化が意味の漂白という言語変化になぞらえて説明されています。

この点も現代のシャーロッキアン(の私)からすると分かりにくいというか、体感していないところなので、「冗談として成立」させている論文というものの存在自体をあまり知らないような気がします。以下に真面目にThe Gameに取り組むのかということが重要だと思っていましたが、その前にはこうした時代もあったということを知りました。

狭義のシャーロッキアン達が日々実践している”the Game”を、単なる「お約束」としてではなく、言語がどのように意味を変えていくかという一般法則の具体例として捉え直している点が、この論文のメッセージであると理解しました。ノックスのアイロニーに満ちたパロディが、BSIやBSJという制度を経て今も生き続け、その中でアイロニーの温度がどう変化してきたか、こうした視点で先人達の(膨大な!)記録を読み直してみる必要がありそうです。

 

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