2026年8月19日:二部構成という難題 — Nick Laneはなぜ「恐怖の谷」を選んだのか

シャーロッキアン日記

Journal of Adaptation in Film & Performance 誌(2024年、17巻1号)に掲載されたTom Ue氏によるインタビュー記事を読みました。

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Tom Ue氏は、今年のBSIディナーでBSIのメンバーに任命されたシャーロッキアンで、私もランチョンと呼ばれる翌日の昼食会で、その報告を聞きました。その後、日本にも来られたのですが、残念ながら私は所用がありお会いすることができませんでした。

このインタビューは、英国のBlackeyed Theatreが手がけた舞台版『The Valley of Fear』(『恐怖の谷』)について、脚色・演出を担当したNick Lane氏と、ホームズ役のLuke Barton氏に話を聞いたものです。Lane氏はBlackeyed Theatreによる『四つの署名』(2018年公演)の成功を受けての続編としてこの企画に取り組んだそうで、UeによるLane・Barton両氏へのインタビューも今回が2度目とのことでした。

『恐怖の谷』は、ドイルの4長編の中でも扱いが難しい作品だと言われます。原典の犯罪学的な興味という点では『四つの署名』に及ばず、『バスカヴィル家の犬』ほどの派手さもなく、ホームズとワトスンの世界を広げる役割としては『緋色の研究』に一歩譲る——記事の中でUe氏はそうした位置づけを紹介した上で、Google Scholarでの言及件数の比較まで示しています(執筆時点でFear 1580件に対し、Scarletは7840件だったとUe氏は記しています)。それでも原作の構造そのものに強く惹かれたと、Lane氏は語っています。

二つの「事件」の間に橋を架ける

原作『恐怖の谷』は、バールストン館での殺人事件を扱う第一部と、ヴァーミッサ渓谷を舞台にジャック・マクマードが秘密結社スコウラーズに潜入する第二部という、ほぼ独立した二つの物語で構成されています。この構造は小説としては効果的でも、舞台化には大きな壁になります。Lane氏いわく、原作の構成をそのまま舞台に載せると、ホームズは前半のうちに退場し、終演間際の3分間まで戻ってこないことになってしまう。つまり観客は休憩前にバールストン事件の謎を解かれてしまい、ホームズ抜きの後半をひたすら見続けることになるというのです。

そこでLane氏が選んだのは、ホームズの捜査とマクマードの物語を並行編集する手法でした。テレビドラマの視聴に慣れた現代の観客であれば、時間や場所を行き来する語りにも十分ついてこられるはずだという判断があったといいます。この構成によって、①バールストン殺人事件そのものの謎、②見知らぬ男マクマードの正体とその目的、③この二つの物語がどう繋がるのか、という三重の謎が同時進行することになります——これは本稿での整理ですが、単に「原作に忠実な二部構成」を舞台に移し替える以上の緊張感が生まれていることは間違いありません。

冒頭の演出とワトスンというレンズ

舞台冒頭は、ワトスンがタイプライターを打つ場面から始まり、すぐに複数の登場人物がのちの場面の台詞を断片的に繰り返す演出に移ります。Lane氏はこれについて、観客が目にする場面はすべてワトスンというレンズを通したフィクションであることを示す狙いがあったと説明しています。あわせて、1960年代の『スパイ大作戦』が毎回冒頭で見せていた予告的な断片挿入への目配せでもあったとのことで、観客が後になって「あの台詞はここに繋がっていたのか」と気づく仕掛けとして機能しているようです。

キャストは5人という限られた人数で、多くの登場人物を掛け持ちする「キャラクター・ダブリング」も大きな見せ場になっています。Lane氏によれば、この点で最も苦労したのは、誰がいつ衣装を替えて別人として再登場するか、という純粋に実務的なパズルだったそうです。

 

ほぼ登場しないのに全体を支配する男 — モリアーティという設計

今回のインタビューでもう一つ興味深かったのが、モリアーティ教授の扱いをめぐるLane氏の指摘です。シャーロック・ホームズといえばモリアーティ、というイメージが広く定着している一方で、正典60編の中で彼が実際に姿を見せるのは「最後の事件」ただ一作のみで、名前が言及される他の5編(「空き家の冒険」「ノーウッドの建築業者」「スリークウォーター失踪」「高名な依頼人」「最後の挨拶」)でも直接の登場はありません。原作『恐怖の谷』自体ではモリアーティは直接登場せず、あくまでポーロックの暗号などを通じて間接的に示唆される存在にとどまりますが、舞台版ではバールストン事件・ヴァーミッサ篇の双方を包み込む枠組みとして、モリアーティの存在がより前面に押し出された構成になっています。Blackeyed Theatre自身も本作を「秘密結社と、モリアーティ教授の不穏な暗躍」を描く作品として紹介しています。

書かれた順番と、物語の中の時間——後退的(レトロアクティブ)な構造

この作品自体、執筆順としてはドイルがシリーズ後期に手がけた作品でありながら、作中の時系列では「最後の事件」でホームズとモリアーティが対決する以前、つまりモリアーティとの因縁が本格化する前の時期に位置づけられています。連載は1914年9月から1915年5月にかけて行われ、これはドイルが手がけた最後のホームズ長編でした。一方、作中の年代については研究者の間でも揺れがあるものの、多くの年代記研究では1888年前後、「最後の事件」(作中1891年4月、発表は1893年12月)よりも前の出来事として読まれています。つまりドイルは、ホームズを一度死なせ(1893年)、10年後に「空き家の冒険」(1903年)で生還させ、その後も多くの短編を書き継いだ末に、あえて「最後の事件」以前の出来事として本作を書き下ろしたことになります。このインタビュー記事のタイトル「late-period Sherlock Holmes」は、単に「執筆時期が後期である」というだけでなく、「執筆順と作中の時系列が逆転している」という意味でも読み直せる表現だと思います。

この時系列のねじれは、カノン内部の有名な不整合とも関わっています。本作ではワトスンはすでにモリアーティの存在を知っており、ホームズが彼についてワトスンやマクドナルド警部に詳しく語る場面がありますが、作中の年代としては後にあたる「最後の事件」では、ワトスンはモリアーティについて何も知らないと描かれています。研究者の多くはこれを、語り手ワトスンによる意図的な情報の伏せ方、「最後の事件」発表当時にはまだ本作を公表する予定がなかったため、あえて詳細を伏せたのだろう、として説明しています。この読み方に立つなら、「ワトスンというレンズを通したフィクション」という舞台冒頭の演出は、単なる語りの技法紹介にとどまらず、ワトスンが読者に対してすでに何かを隠し続けているという構造そのものを暗示する仕掛けとしても機能していることになります。

モリー・マグワイアズという実在の縫い目

Lane氏は、ドイルが長年温めていたモリー・マグワイアズを題材にした物語を、最終的にバールストン事件に接ぎ木する形で『恐怖の谷』が生まれたのではないか、という見立てを語っています。この見立てには、実在の歴史的背景による裏付けがあります。モリー・マグワイアズは1860〜70年代、ペンシルベニアの炭鉱地帯で活動していたアイルランド系移民の秘密結社で、ピンカートン探偵社による潜入捜査によって摘発されました。作中のスコウラーズと、その潜入捜査官バーディ・エドワーズ(潜入時の偽名がジャック・マクマード)は、実在のこの事件と、ピンカートン探偵社のジェームズ・マクパーランドをモデルにしているとされています。

伝えられるところでは、ドイルは大西洋を渡る船旅の途上で、ピンカートン探偵社の創業者アラン・ピンカートンの息子ウィリアムから、このモリー・マグワイアズ摘発の顛末を聞かされ、そこからバーディ・エドワーズという人物像を着想したという逸話が広く語られています。ただしこれは確定した一次資料に基づくものというより、伝記的なエピソードとして流布している域を出ないようなので、あくまで「そう伝えられている」という留保付きで受け止めておきたいところです。

いずれにせよ、この実在の背景を踏まえると、Lane氏の「接ぎ木」という見立てには相応の説得力があります。原作の二部構成は単なる構成上の不均衡ではなく、由来の異なる二つの素材——バールストン館という英国式の探偵小説的な謎と、モリー・マグワイアズという実際に起きたアメリカの労働運動弾圧史——が縫い合わされた痕跡として読めるからです。しかも皮肉なことに、実在の歴史に裏打ちされ、最も肉付き豊かに書かれているヴァーミッサ篇こそが、ホームズの不在する後半にあたります。原作のもっとも充実した部分が、探偵の不在する部分である——この逆説にこそ、Lane氏が舞台化にあたって解決を迫られた構造的な難題の根があったように思えます。

原作にないモリアーティとの対面シーン

特に印象的なのが、舞台版では原作には存在しないホームズとモリアーティの直接対面シーンがある点です。ギャラリーでの緊迫した場面で、ホームズは(おそらくモリアーティから)ナイトの駒を一つ受け取ります。Barton氏はこの場面について、ホームズがモリアーティという存在に強く惹きつけられると同時に、自分がついに打ち負かせないかもしれない相手だという恐れも抱いている、その両方を体現しようとしたと振り返っています。ホームズにとってこの一件が、単なる警告なのか、それとも差し迫った脅威の予告なのかを推し量ろうとする過程そのものを、演技として立ち上げたということです。

Lane氏は、ホームズとワトスンの友情に焦点を当てた今回の脚色において、モリアーティを「三角関係の三つ目の頂点」と位置づけています。ホームズの論理的な行動が、結果としてワトスンを実際の危険にさらしてしまうかもしれない、その緊張関係を際立たせる装置として、モリアーティの存在が機能しているという説明でした。興味深いのは、正典本編では姿をほとんど見せない「不在の脅威」であるモリアーティが、この舞台版ではGavin Molloy演じる役として実際に舞台上に立ち、ギャラリーの場面でホームズと対面する点です。原作が徹底して守った「不在」という設計を、舞台版はあえて崩すことで、逆にホームズとワトスンの関係に及ぶ緊張感を可視化してみせている、そこに脚色者としての狙いの巧みさを感じます。

先ほど触れた時系列のねじれを踏まえると、このギャラリー場面にはもう一段別の意味が見えてきます。原作では、バールストン事件の終盤、ダグラスの死を知ったホームズが「モリアーティを倒してみせる」と誓う一節があり、これは物語の外側ではすでに書かれている「最後の事件」への伏線として機能しています。つまり原作のモリアーティは、作中では「まだ来ていない対決」への予告でありながら、書き手であるドイルにとっても読者にとってもすでに結末を知っている「既知の運命」でもあるという、二重の時間を生きた存在です。舞台版があえて追加したギャラリーでの直接対面は、原作が伏線としてしか置けなかったこの対決を、時系列を先取りする形で観客の目の前に視覚化する選択だと読めます。Lane氏の演出は、単なる見せ場の追加というより、ドイルが本作に埋め込んだ「後から書かれた前置き」というレトロアクティブな構造そのものへの応答になっているように思えます。

おわりに

ドイルの長編4作の中でも位置づけが定まりにくい『恐怖の谷』ですが、こうして見てくると、その「扱いにくさ」自体がドイルの執筆プロセスの痕跡であるように思えてきます。すでに書き終えていた対決(ライヘンバッハ)への伏線として、まだ来ていないはずのモリアーティを配し、由来の異なる二つの犯罪史——バールストン館の謎と、実在のモリー・マグワイアズ事件——を「最後の事件」以前の出来事として後から縫い合わせる。これはあくまで個人的感想ですが、この後退的(レトロアクティブ)な構造こそが『恐怖の谷』を長編として据わりの悪いものにしている一方で、今回の舞台に際しては脚色者にとっては格好の題材にもなったということのように思います。Lane氏の並行編集とギャラリー場面は、この構造が生んだ「縫い目」と「伏線」を、舞台という表舞台の上で回収する試みとして読めます。Blackeyed Theatreは2018年の『四つの署名』に続き、今回もまた、原作そのものが抱えていた執筆上のねじれに、正面から応答してみせたと言うことのようです。こちらのインタビューについても、興味深そうですので、読んで取り上げたいと思います。


出典

Ue, Tom (2024), ‘The late-period Sherlock Holmes: Nick Lane and Luke Barton on adapting The Valley of Fear’, Journal of Adaptation in Film & Performance, 17:1, pp. 91–101, 

Ue, Tom (2021), ‘Under the deerstalker: Nick Lane and Luke Barton on Sherlock Holmes and The Sign of Four’, Journal of Adaptation in Film & Performance, 14:2, pp. 233–47.

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