2026年10月29日:「あの女性」の勝利とは何だったのか:原作研究から読む「ベルグレービアの醜聞」論争

シャーロッキアン日記

アカデミア(Academia.edu)から届いたメールで、ある論文の存在を知りました。Krystal A. FogleとToni Maisanoによる「The New Sexy: A Rhetorical Analysis of Sherlock」で、2013年に米国アビリーン・クリスチャン大学の学術誌『Conversations: A Graduate Student Journal of the Humanities, Social Sciences, and Theology』に掲載されたものです。BBCの『SHERLOCK(シャーロック)』第2シリーズ第1話「ベルグレービアの醜聞」(2012年)を取り上げ、この回は女性を貶めているという批判に対して、むしろジェンダーの固定観念を揺さぶる作品だと擁護しています。

論文には、夢や想像の場面の構成、赤い色のモチーフ、繰り返される台詞など、著者自身による場面分析もあります。ただ、結論の中核では、シャーロックが最後にアイリーンの命を救いに現れることこそアイリーンの勝利だ、というモファット自身のインタビューでの説明を、そのまま採用しています(p. 14)。また、シャーロックが女性から距離を置くのは女性の「より感情的な性質」のためだと説明し(p. 10)、結論ではアイリーンが保つ「女性らしさの本来的な美質」を称えています(p. 14)。固定観念を崩すと宣言する論文が、「男性=論理、女性=感情」という図式から十分に離れているかどうかは、疑問が残ります。形式面でも、要旨ではモファットを監督としながら、脚注1ではポール・マクギガンを監督と記すなど、記述の不整合が見られます。分析項目も、本文の予告では四つ(narrative、visuals、language、paralanguage。p. 7)なのに、実際の章立てはNarrative、Visuals、Languageの三つです。

それでも、この論文が応答しようとしていた論争そのものは、掘り下げる価値があると思いました。原作「ボヘミアの醜聞」のアイリーン・アドラーをどう読むかという、もっと古い問いと地続きだからです。今回は、原作をめぐるジェンダー論の研究を背景に置いて、2012年の論争を読み直してみます。なお、ここで紹介する研究には2012年より後のものも含まれます。研究から論争への直接の影響関係をたどるのではなく、後年の研究も使って当時の争点を照らし直す試みです。

1. 原作の結末:勝利と退場は両立する

まず原作の要所を確認しておきます。ここで大事なのは、それぞれの言葉が誰の口から出ているかです。

冒頭でワトスンは、ホームズが彼女を常に「the woman」と呼ぶと説明します。延原謙訳では「あの女」です。そしてすぐ後で、それは恋愛感情ではないと断っています。

シャーロック・ホームズは彼女のことをいつでも「あの女」とだけいう。(中略)とはいっても「あの女」すなわちアイリーン・アドラーにたいして彼が恋愛めいた感情をいだいているというのではない。

原文:”To Sherlock Holmes she is always the woman.” / “It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler.”

彼女の知性を男性にたとえて評するのは、ボヘミア王です。これは直接には王の発言であり、そのままホームズや作者の評価と直結させることはできません。

外面は女性としても無類の美しさをもちながら、内心は、男もおよばぬ果敢さがある。

原文:”She has the face of the most beautiful of women, and the mind of the most resolute of men.”

事件のあと、王が「釣りあう身分の者でないのがかえすがえすも残念」と嘆くと、ホームズは冷ややかにこう返します。身分の上下を、人物としての上下に逆転させる皮肉と読めます。

「私の見うけましたかぎりでは、この婦人は陛下と水準がたいへんちがうかに考えられます」とホームズは冷やかにいった。

原文:”From what I have seen of the lady she seems indeed to be on a very different level to your Majesty,” said Holmes coldly.

写真についての説明も、語り手によって食い違います。王は、アドラーは写真を売らないと言い、婚約が発表されたらその日に先方へ写真を送ると脅している、と語ります。

「向うは売るまい」

「婚約が正式に発表されれば、その日に送り届けると申しおるからだ。発表はこんどの月曜日と決定しておる」

原文:”She will not sell.” / “Because she has said that she would send it on the day when the betrothal was publicly proclaimed. That will be next Monday.”

一方、アドラー自身は置き手紙で、写真は今後の干渉から身を守るために持っておくのだと書いています。

あのお写真はただ私のお守りとして、手もとに留めおきます。この後とも、万一王さまから何か仕むけられでもしましたときの、身を守る武器ともいたしたいだけの思案にございます。

原文:”I keep it only to safeguard myself, and to preserve a weapon which will always secure me from any steps which he might take in the future.”

両者の説明は一致しておらず、王の語る動機を、そのまま物語上の事実と見なすことはできません。

同じ手紙で、アドラーは男装に慣れていること、それが与える自由を以前から使っていることを明かします。男装を自分では「散歩服」(walking-clothes)と呼んでいる、とも書いています。

でも、ご存じのとおりお芝居には慣れておりますし、男装をいたすのなど造作もございません。これまでにもよく、そのおかげで気ままにふるまったものでございます。

原文:”But, you know, I have been trained as an actress myself. Male costume is nothing new to me. I often take advantage of the freedom which it gives.”

そして結びで、ワトスンはこの事件を、ホームズの計画が「一婦人の機知」に破れた話としてまとめ、以来ホームズは女性の賢さを笑わなくなったと書きます。

以上が、ボヘミア王国を脅かした一大醜聞事件の報告であり、ホームズの巧妙な計画が、一婦人の機知によって、いかにうち挫がれたかという話の一条である。ホームズは以前よく、女の浅知恵と笑い囃したものだが、近ごろはいっこうにそれを聞かなくなった。

原文:”And that was how a great scandal threatened to affect the kingdom of Bohemia, and how the best plans of Mr. Sherlock Holmes were beaten by a woman’s wit. He used to make merry over the cleverness of women, but I have not heard him do it of late.”

なお、原文の「the cleverness of women」(女性の賢さ)を、延原訳は「女の浅知恵」と訳しています。ホームズがかつて女性の賢さを軽んじていた、という含みを訳語の側で強めた形で、原文を読むときとは印象が少し変わります。

つまり、ホームズを出し抜いたことは、ワトスンによって明記されています。一方で、アドラーは物語の途中でゴドフリー・ノートンと結婚し、夫とともに英国を去ります。知的な勝利と、結婚・出国による物語からの退場は、原作の中で両立しているのです。その退場が勝利を限定するものなのか、それとも自ら選んだ離脱なのかは、別に考える必要があります。

2. 原作研究:規範を揺るがす力と、その不安を鎮めようとする語り

原作のアドラーについては、ジェンダー研究の側から一定の蓄積があります。

文化史家ジョゼフ・A・ケストナーの『Sherlock’s Men』(1997年)は、アーサー・コナン・ドイル協会誌に載ったR・ディクソン・スミスの書評によれば、ホームズ物語をヴィクトリア朝後期の男性性の組み立て直しを映す資料群として読み、その中でアドラーを既存の男性規範を深刻に脅かす存在と位置づけています。

コンスタンス・クロンプトンの論文(2011年)は、アドラーを、女性の服装をしているときも含めて一貫して「男性的な異性愛の女性」として読みます(第15段落)。その表れとして挙げるのは、男たちが女性を介して結ぶ関係から外れていること、そして王とホームズの争いとは無関係に自分で結婚を決めていることです(第26段落)。同じ論文は、物語は最終的にジェンダー規範の回復によって解決すると認めながら、男として通用する女性の存在そのものが規範の不安定さを示してしまう、とも論じています(第3段落)。種明かしは不安を鎮めようとするけれども、消しきることはできない、というのがクロンプトンの結論です(第33段落)。

レベッカ・ネスヴェットの論文(2023年)は、クロンプトンの男性性の分析を引き継ぎつつ、性自認の解釈では別の方向へ踏み込み、アドラーをトランス男性的な人物として読みます。注目するのは、アドラーが置き手紙で、男装のままホームズを見送ったあと、夫に会いにインナー・テンプルへ向かったと書いている箇所です。ネスヴェットはこの記述から、女性が法曹資格や構成員資格から排除されていた時代の、男性中心の法曹空間への立ち入りを読み取り、ジェンダー規範への越境として解釈しています。立ち入りの様子そのものは原作に描かれておらず、ここはネスヴェットの読解です。また、クロンプトンがアドラーを「女性として自己認識する」人物と位置づけるのに対し、ネスヴェットは、アドラーの私的な自己認識は原作からは確定できないとして、地の文で性別を特定する代名詞を使わない方針をとっています。性自認の読み方について、両者の見解は異なります。

アドラーを「新しい女」と結びつける読みも広く見られます。この呼び名が広く流通したのは1894年のサラ・グランドとウィーダの論争以降で、作品の発表(1891年)より後です。ただ、名称の普及以前から、女性の自立やジェンダー規範からの逸脱をめぐる変化は進んでいました。アドラーは、そうした変化と結びつけて読まれてきた人物と言えます。

こうして見ると、原作研究は「転覆派」と「封じ込め派」にきれいに分かれているわけではありません。クロンプトン一人の論文の中にも、規範を揺るがす力と、その不安を鎮めようとする語りの力が同居しています。結婚と出国がその「鎮める」側に働くのかどうかは、研究の中でも決着していない問いとして残しておきます。

3. 2012年の批判:問題は「性的になったこと」なのか

「ベルグレービアの醜聞」のアイリーンは、オペラ歌手ではなく、顧客に支配的な役割を演じて報酬を得る「ドミナトリクス」に置き換えられました。放送直後から批判が相次ぎます。

放送当日の1月1日、ブロガーのゾーイ・スタヴリは、優れた女性キャラクターが台無しにされたと批判しました。ただし、スタヴリの記事は前半約80分のアイリーンを高く評価しています。裸で対面する場面も、服装から情報を読むホームズに手がかりを与えない知的な戦術として読んでいます。批判の矛先は、アイリーンの知恵がモリアーティの入れ知恵だったと明かされること、恋心が原因で敗れること、最後に男性に救出されることといった、終盤の展開に向いています。

翌2日には、トロント大学でシェイクスピア時代の演劇を研究するホルガー・サイムが、ブログ「dispositio」で論じました。原作では女性を見くびったホームズが敗れるのに、ドラマでは優位に立っていた女性が解体され、男性の天才が再確認される。原作の論理が反転している、という批判です。サイムはまた、「the woman」の意味が、知的に敗れたことへの敬意から、恋愛的な特別扱いへと移ったことも指摘しています。

3日には、ジェーン・クレア・ジョーンズがガーディアン紙のコラムで、このアイリーンの力は知的なものではなく性的なものにされた、後退だと論じました。9日にはニュー・ステイツマン誌がヘレン・ルイスとスタヴリの往復書簡を掲載しています。ルイスは、モリアーティをめぐるシリーズ全体の構成や、無敵のシャーロック像を早々に崩さないためといった、劇作上の理由から改変を擁護しました。これに対しスタヴリは、男性が中心の連続ドラマであるという事情は認めつつ、それでも女性を従属的な位置に戻す選択は批判できる、と応じています。改変に劇作上の理由があることと、その改変がジェンダーの面でどんな効果を持つかは、別の問いだということです。

こう並べると、争点は「性的な設定になったから後退した」という一枚岩のものではないことが分かります。性労働や裸体という設定そのものへの評価と、物語が最後に誰に決定権を渡すのかへの評価は、分けて考える必要があります。本稿では、性労働という設定それ自体を、主体性を失っている証拠とは扱いません。

4. モファットの反論:何をもって「勝利」とするか

モファットの反論は、当時の報道と、それを引用した批評からたどることができます。

一つ目は、ウェールズのニュースサイトWalesOnlineが2012年1月4日に報じたものです。報道の原文には当たれていませんが、サイムの記事の追記や、フォズ・メドウズの1月8日の記事に、リンク付きで引用されています。それによれば、モファットは、番組を批判することと、作者の動機を推測して非難することを区別し、そうした作者の動機への非難について、批評を越えて名誉毀損に踏み込むものだと強く反発しています。サイムは追記でこれに触れ、モファット個人が女性差別主義者かどうかは判断しないが、作品の構造は批判できる、と応じています。

二つ目は、1月20日付ガーディアン紙のスチュアート・ジェフリーズによるインタビューです。モファットは、原作でのアドラーの勝利は引っ越して夫と逃げることで、それはフェミニスト的な勝利ではない、と述べました。今回はシャーロックが彼女の命を救いに現れることがアイリーンの勝利なのだ、とも説明しています。ジョーンズの批判については、深く不快だと語っています。

三つ目は、5月7日に掲載されたThinkProgressのアリッサ・ローゼンバーグによるインタビューです。米国PBSでの放送の翌日にあたります。ここでモファットは、原作のアドラーを「私の見る限り、男と結婚して引っ越したオペラ歌手」と評し、少年時代にホームズの特別扱いを読んで、その理由は彼女への好意なのだと理解した、と語っています。

四つ目は、5月19日付『タイムズ』紙のリディア・スレイターによる記事です。女性ファンの話題の流れで、女性が男性に惹かれることがあると言っただけでも性差別だと言われるのだろう、と皮肉を述べています。作品解釈への反論というより、批判によって与えられた人物像への反発と言えるものです。

ここで、1で見た原作の一文を思い出してください。ワトスンは、ホームズの特別扱いが恋に似た感情ではないと明言していました。ホームズの特別扱いを好意で説明するモファットの読みは、少なくともこのワトスンの説明とは衝突します。もちろん、ワトスンの説明を疑い、その奥に隠れた感情を読む解釈もありえます。ただ、それを原作に即した読みとして示すなら、ワトスンの説明を採らない理由が必要になります。翻案として恋愛の要素を加える自由と、「原作もそういう話だった」と説明することの妥当性は、分けて考えるべきでしょう。

では、両者は何をめぐってすれ違っているのか。本稿では、アイリーンの「勝利」として評価しうるものを、少なくとも三つに分けて考えます。一つ目は作戦の成否で、交渉材料を保持し、要求を通せたかどうか。二つ目は関係への影響で、シャーロックの感情や行動を変えたかどうか。三つ目は結末を決める力で、自分の生存や将来を誰が決めたか、です。モファットや擁護論が主として重視するのは二つ目で、批判側が主に問題にしているのは一つ目と三つ目です。シャーロックの心を動かしたことを認めたとしても、最後の決定権が彼の側に移ったという批判は残ります。

一方で、助言を受けたことがそのまま主体性の欠如を意味するわけでも、救出されたことがそのまま弱さを意味するわけでもありません。ホームズ自身、他者の情報や協力に頼ることがあります。問題は援助の有無ではなく、それが人物の能力を後からさかのぼって否定するように示されるかどうか、そして最後の判断と行動が誰に配分されるかです。また、作者個人への非難には人格の次元で、作品構造への批判には解釈の次元で応じているため、両者の議論はかみ合いきらなかったようにも見えます。

5. その後の研究から:衣装、欲望、男性主人公を中心に置く構造

同じ問題は、その後の翻案研究やファン研究でも検討されています。

アントニヤ・プリモラツの論文「The Naked Truth: The Postfeminist Afterlives of Irene Adler」(2013年)は、「ベルグレービアの醜聞」を中心に、ガイ・リッチー監督の映画2作や、キャロル・ネルソン・ダグラスの小説『おやすみなさい、ホームズさん』(原著1990年、日暮雅通訳、創元推理文庫、2011年)も参照しています。そのうえで、映像化ではアドラーの主体性が縮められる一方、性的な表象が強められていることを、ポストフェミニズム的な傾向として論じています。ここでいうポストフェミニズムとは、単に「フェミニズム以後」という意味ではありません。女性の解放を性的な自己表現や個人の選択として示しながら、それを支える権力関係は温存する、という傾向を批判的にとらえる概念です。プリモラツも、裸体が当初はホームズの観察を拒む有効な変装として働いていることは認めています(pp. 100–102)。そのうえで終盤の敗北を批判し、カラチでの救出場面を、西洋の男性英雄と非西洋の空間をめぐる表象の問題にもつなげています(pp. 103–105)。

ちなみにプリモラツは、以前当ブログで紹介したクロアチアの偽ホームズ叢書の研究者でもあります。翻訳と翻案の境界を追う仕事と、映像化でアドラー像がどう作り替えられるかを問うこの論文は、どちらもホームズが別の文脈に移されるときに何が起きるかを扱っている点で通じていると思います。

ジュディス・メイ・ファサラーの『Fanfiction and the Author』(2017年)は、『SHERLOCK』の男性性を論じた第3章で、同性愛者だと自ら語るアイリーンが、結局シャーロックの魅力を際立たせる役回りに回収されていると批判しています(p. 59)。モファット自身は前述のThinkProgressのインタビューで、アイリーンは主に同性愛者だが男性との関係もあった、と説明しています。ここで問うべきは「男性に惹かれたから同性愛者ではない」かどうかではなく、同性への欲望や自己定義が、男性主人公の特別さを証明するための装置になっていないか、という点でしょう。

冒頭のFogleとMaisanoの論文は、この流れの中では、モファットの説明に沿ってアイリーンの「勝利」を擁護した早い時期の例として位置づけられます。

6. 結論:「あの女性」の勝利とは何だったのか

原作では、アドラーがホームズの計画を破ったことが、ワトスンによって明記されています。王との関係を示す写真を手元に残したまま、自分で立ち去り、ホームズに女性についての考えを改めさせた。それが原作の示す勝利です(代わりに残していった彼女自身の写真は、ホームズが王に願い出て受け取ります)。ただし、その勝利は、結婚と出国による物語からの退場と両立しており、原作をヴィクトリア朝の規範から完全に自由な物語とみなす必要はありません。それでも、2012年の翻案で、情報を保持して立ち去る結末が、情報を失い、救出される結末に変わったことは重要です。モファットは、シャーロックに特別な感情を抱かせたことをアイリーンの勝利と説明しました。しかし、他者の感情を動かす力と、自分の安全や将来を自分で決める力は、同じではありません。この違いにこそ、論争の核心があると考えます。

後記:「The Woman」を称える共同体

シャーロッキアンの世界にも少しだけ触れておきます。ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(BSI)の公式サイトの沿革によれば、BSIは発足にあたって、最初の祝杯は常に「The Woman」に捧げると定めています。一方で、女性に会員資格を認めたのは1991年のことです。その間の1967年には、コネティカット州ニューヘイヴンのアルバータス・マグヌス大学の女子学生たちが、アドヴェンチャレシズ・オブ・シャーロック・ホームズ(ASH)を結成しています。物語の中の女性を称えることと、現実の女性に同じ団体の会員資格を認めることは、長く一致していませんでした。この歴史については、改めて別の記事で紹介するつもりです。

参考文献

原作

  • Arthur Conan Doyle, “A Scandal in Bohemia,” The Strand Magazine, July 1891.
  • コナン・ドイル「ボヘミアの醜聞」延原謙訳、『シャーロック・ホームズの冒険』新潮文庫(CD-ROM版)。【要確認:CD-ROMの正式名称と発行年】

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