2026年6月30日:「諮問シャーロッキアン」?―レスリー・S・クリンガー氏インタビュー

シャーロッキアン日記

Radio Times(2026年6月29日付)に、”consulting Sherlockian”を自称するレスリー・S・クリンガー氏へのインタビュー記事が掲載されました。「ホームズなら本当は何と言い、何を着て、何をするか」――それを知りたい映画・テレビ制作者たちが頼る、ハリウッドの”裏方シャーロッキアン”の仕事ぶりを紹介する内容です。

Meet the real-life Sherlock advisor behind Hollywood's Holmes
When filmmakers need to know what Sherlock would really say, wear or do, they call "consulting Sherlockian" Leslie S. Kl...

冒頭で記者は、『緋色の研究』でホームズが自らを”consulting detective”と名乗る場面を引き合いに出し、クリンガー氏を「もう一人の、現実世界における”consulting detective”」と位置づけています。延原謙訳ではこの一節が「私立顧問探偵」と訳されていることを踏まえ、本稿でも”consulting Sherlockian”を「顧問シャーロッキアン」と訳して用いることにします。

クリンガー氏といえば、シャーロック・ホームズ正典への注釈を付した全集『The New Annotated Sherlock Holmes』で知られるシャーロッキアンであり、私が最も尊敬するシャーロッキアンのお一人でもあります。昨年来日された際にお話を伺う機会に恵まれ、また今年1月にはニューヨークで再会も果たすことができ、以前にも増して身近な存在になりました。今回はRadio Times記事の内容整理に、私自身が直接伺った話も加えてまとめてみます。

 

クリンガー氏とはどんな人物か

カリフォルニア在住の弁護士でシャーロック・ホームズ研究者です。1960年代半ば、カリフォルニア大学バークレー校で法律を学んでいた頃、当時の恋人から注釈版ホームズ全集を贈られたのがきっかけで「完全にハマった」と本人は語っています。単なる物語だけでなく、脚注や周辺のアマチュア研究にも魅了されたといい、以後、ホームズ関連のコレクションは約5,000点にまで膨れ上がりました。子育てが一段落した後、当時の妻の勧めで研究執筆を本格的に始め、やがて研究者としての地位を確立します。

シャーロッキアンの世界における彼の立ち位置は、単なる愛好家にとどまりません。米国最古参のシャーロッキアン団体ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(BSI)には”The Abbey Grange”の名で正式に迎え入れられており、現在はBSIトラスト(BSIのアーカイブ運営を担う非営利団体)の会計担当理事(Secretary-Treasurer)も務めています。学術面での代表的業績は、上述の『The New Annotated Sherlock Holmes』(短編集2巻・長編集1巻)の編纂で、これは現在、研究者・翻案制作者双方にとって標準的な参照文献となっています。

 

顧問シャーロッキアンとしての仕事

クリンガー氏の映像業界での関わりは、偶然の連続から始まったと本人は振り返っています。

ガイ・リッチー版『シャーロック・ホームズ』(2009年)の企画者ライオネル・ウィグラムとは知人の紹介で一度会ったものの、「私が原理主義者だと思われたのか」その後音沙汰はなかったといいます。監督候補だった知人(結局その役には就かなかった)とも事前に映画談議をしたものの、これも空振り。転機となったのは、地元の食料品店でロバート・ダウニー・Jr本人と偶然出くわしたという出来事でした。「シャーロック・ホームズをやっている」と話すダウニー・Jrに、店主が「うちの友人レス(クリンガー氏の愛称)がホームズの世界一の専門家だよ」と口を挟んだことから二人は意気投合し、クリンガー氏は非公式の技術顧問として脚本の時代考証・キャラクター整合性チェックに関わるようになります。2年後の続編『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』では正式な顧問となりました。

具体的な助言の例として、記事ではタロットカードの時代考証や、ベイカー街の下宿の外灯表示についての指摘(”221B”ではなく本来は室内側にしか部屋番号は表示されないはずだから”221″とすべき、という助言――ただしこれは採用されなかった)が挙げられています。一方、葬儀シーンでのホームズの墓碑銘の文言執筆は採用され、本人も「あれは勝利の一つだった」と笑いながら語ったとのことです。

2019年制作の『エノーラ・ホームズ』(Netflix)では、監督ハリー・ブラッドビアの依頼で脚本の時代考証チェックを担当。脚本家ジャック・ソーンの仕事ぶりを高く評価し、続編『エノーラ・ホームズ2』が実際のマッチ売り娘のストライキやリン中毒問題という史実を踏まえていた点を挙げています。ヘンリー・カヴィル演じるホームズが登場する場面では、監督と共に「ホームズならこの場面でどんな手がかりに気づき、どう推理を進めるか」を一つ一つ組み立てていく作業が特に印象深かったと記事では述懐しています。

この他、2010年に米公共放送PBSが放映したBBC版『Sherlock』(ベネディクト・カンバーバッチ主演)では、放映に合わせてリアルタイムで元ネタ解説をツイートするtweetnotes(ツイート脚注)を担当。CBS版『Elementary』(ジョニー・リー・ミラー主演)では脚本家陣と親交を持ち、「この状況でホームズならどうするか」といった質問に随時答える形で協力していたといいます。さらに『Elementary』のプロデューサー、クレイグ・スウィーニーが手がけた医療ミステリー新作『Watson』(ワトスンを再解釈した作品)では全話の脚本チェックを担当し、特に「ワトスンの執務室に何を飾るか」という美術面の考証には力を入れたそうです。作中でホームズが物語冒頭で死亡している設定を踏まえ、亡き親友を偲ばせる小道具(虫眼鏡やパイプといった定番のほか、アイリーン・アドラーがホームズに贈ったコインや、正典に言及のあるシガレットケースなど)を提案したとのことです。

 

法廷に立つシャーロッキアン;クリンガーvsコナン・ドイル財団

クリンガー氏の仕事を語るうえで欠かせないのが、2013〜2014年に争われた Klinger vs Conan Doyle Estate, Ltd. です。これは単なる余談ではなく、その後のホームズ翻案全体の法的環境を規定した重要な判例として扱われています。

事の発端は、クリンガー氏が共編した短編集 A Study in Sherlock(2011年)の続編 In the Company of Sherlock Holmes の出版計画でした。当時、正典60編のうち作品としては50編(長編4作+短編46作)が米国で著作権切れとなっていましたが、1923年以降に発表された最後の10短編(『シャーロック・ホームズの事件簿』収録分)はなお著作権が存続していました。コナン・ドイル財団は、この最終期の作品群でホームズやワトスンの人物像が、より温かみのある、より人間的な性格に発展した点を根拠に、たとえパブリックドメインの部分だけを使う場合でも、キャラクター全体の使用にはライセンス料が必要だと主張し、出版差し止めを示唆しました。

クリンガー氏はこれに対し、イリノイ州北部地区連邦地方裁判所に確認判決を求める訴訟を提起。2013年の地裁判決、2014年の第7巡回区控訴裁判所判決(担当判事はリチャード・ポズナー)とも、著作権切れとなった50編に由来する要素は誰でも自由に使用できると判断し、財団側の主張を退けました。控訴裁判所は財団の主張を「事実上、無期限に近い著作権保護を求めるもの」と評し、さらに財団の商慣行(根拠の薄いライセンス料を提示し、相手が争うコストを恐れて支払うことを期待するやり方)を「一種の強要(a form of extortion)」とまで表現しています。この判決を受け、財団は連邦最高裁への上告を試みましたが、2014年11月に受理拒否となり、確定しました。このクリンガー訴訟は現在、法科大学院の教材としても採用されており、以後のホームズ翻案作品が”どこまで自由に創作できるか”を判断する基準を築いた判例として知られています(なお正典全60編が米国で完全にパブリックドメイン入りしたのは2023年1月1日のことです)。

この経緯があったからこそ、クリンガー氏は2015年のイアン・マッケラン主演『ミスター・ホームズ』や、2020年の『エノーラ・ホームズ』(Netflix)をめぐる財団側の権利主張の場面でも相談を受ける立場になったといいます。実際、コナン・ドイル財団は2020年6月、ネットフリックス、原作者ナンシー・スプリンガー、出版元ペンギン・ランダムハウス等を相手取り、ニューメキシコ州連邦地裁に提訴しました。主張の核心は、映画版のホームズが見せる温かさや感情は1923年以降発表の著作権存続作品にのみ現れる特徴であり、無許諾での使用は侵害にあたるというものでした。この訴訟は2020年12月、当事者間の合意により棄却(stipulated dismissal)という形で決着し、詳細な和解内容は公表されていません。

 

シャーロッキアン視点から見た「クリンガー現象」

この記事を読んで改めて感じるのは、”consulting Sherlockian”という肩書きが、ファン活動としてのシャーロッキアン研究が制作現場において公式に制度化された一つの到達点だという点です。BSIのような愛好家団体における研究活動と、ハリウッドのプロダクションにおける技術考証という、本来別の回路にあった二つの営みが、クリンガー氏という一人の人物を介して直接つながっている構図は興味深いものがあります。

またクリンガー氏の『The New Annotated Sherlock Holmes』は、原文の時代背景・語彙・矛盾点を丹念に注釈し、後続の読者・翻案者が依拠する”標準参照点”を提供している点で貴重です。翻案作品の考証担当者が実際にどの注釈書・研究に依拠しているかを追う作業は、翻案研究・受容史研究の観点からも一つの手がかりになりそうです。

もう一点、クリンガー氏がインタビューの最後で語っている「ホームズは”手の届く超能力者(attainable superhero)”だ」という評――放射能グモに噛まれる必要も赤い太陽を浴びる必要もなく、努力次第で誰でも彼のようになれるという読み方――は、シャーロッキアン研究の存在意義そのものを言い当てた言葉のようにも思えます。彼が法廷闘争を通じて”誰もがホームズを自由に語り継げる状態”を守ったこと自体、この「手の届く」ヒーロー像を制度的にも下支えする行為だったと言えるのかもしれません。

 

クリンガー氏に実際にお会いして

ここからは記事には出てこない、私自身が直接クリンガー氏から伺った話を書き添えておきます。

外灯の表示を”221″にすべきという助言のくだりは、実際にお会いした際にもご本人から伺いました。研究者としての立場を安易に曲げず、映画制作の現場でもきちんと筋を通す姿勢には、研究者とエンターテインメントの間にある壁について考えさせられると同時に、深く感銘を受けました。

また『エノーラ・ホームズ』についても、続編(パート2、もしくは3かも)には声がかからなかったとご本人が少し寂しそうに話していたのが印象に残っています。この点はRadio Times記事には出てきておらず、直接お話を伺った際に知った裏話です。

権威あるシャーロッキアンということで、お会いする前は厳格で少しとっつきにくい方を想像していたのですが、実際にお話ししてみるととても柔和でユーモアもある方で、親しみやすい印象を受けました。そうした人柄は、今回のインタビュー記事の端々からも伝わってくるように思いますので、ぜひ元記事にもあたってみていただければと思います。

また来年のニューヨークでお会いできることを、今から楽しみにしています。

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