先日、Marco Mellinaの論文「Sherlock Holmes in Moscow, revisited: Harold J. Berman and US-Soviet legal cultural diplomacy in the 1950s」を見つけました。題名を訳すと「モスクワのシャーロック・ホームズ再訪:ハロルド・J・バーマンと1950年代の米ソ法文化外交」となります。
扱われているのは、1958年から59年にかけて、コナン・ドイルの遺族側がソ連の国営出版社と文化省を相手に、モスクワの裁判所で起こした訴訟です。ソ連ではドイルの作品が数百万部も出版されていましたが、原告側によれば、ドイルにも遺族にも1コペイカも支払われていませんでした。その代価を払えと求めたのです。原告の代理人として法廷に立ったのは、ハーバード大学の法学者でした。
英語の文献では、この訴訟は「the Conan Doyle case(コナン・ドイル事件)」と呼ばれています。ただ、シャーロッキアンがこの言葉を聞くと、エダルジ事件やスレイター事件のように、ドイル自身が冤罪を晴らそうとした事件を思い浮かべてしまいそうです。この記事では、混乱を避けるため「ソ連印税訴訟」と呼ぶことにします。
なぜソ連は払わなかったのか
前提として、当時のソ連は、ベルヌ条約にも万国著作権条約にも加わっていませんでした。ソ連の法律では、外国で最初に公表された作品は、相手国との協定がない限り、ソ連国内で著作権の保護を受けられません。そして、イギリスとのあいだにそうした協定はありませんでした。そのため、イギリスで最初に発表されたドイル作品について、遺族側はソ連の法律にもとづく著作権使用料を請求できなかったのです。
これはドイルに限った話ではありません。ジャック・ロンドンやマーク・トウェインなど、西側の多くの作家の作品が、ソ連で許可も支払いもないまま大量に出版されていました。もっとも、ソ連の出版社が一部の外国の作家に、法的な義務とは別に支払いをした例もあります。バーマン自身、劇作家リリアン・ヘルマンらの名前を挙げています。1958年には、アメリカの作家団体の依頼を受けた政治家アドレー・スティーヴンソンが、モスクワで支払いを求める交渉をしましたが、成果はありませんでした。
Mellinaの論文は有料で、2026年10月17日に確認した時点では、無料公開は2029年1月の予定と表示されていました。そこで今回は、論文の本文には頼らず、無料で読める同時代の資料から、この訴訟で何が起きたのかをたどってみました。調べてみると、後年の記述と同時代の記録とのあいだに、小さくない食い違いがありました。
追悼記事が書いた「一審勝訴」
この訴訟で原告側の代理人を務めたのは、ハーバード・ロースクールの法学者ハロルド・J・バーマン(Harold J. Berman, 1918–2007)です。ソ連法研究の第一人者で、のちにペレストロイカ期のロシアで法整備の相談役も務めた人物です。
2007年にバーマンが亡くなった際、ハーバード・ロースクールの追悼記事は、この訴訟について、バーマンはモスクワの市裁判所で勝訴し、その後ロシア共和国の上級裁判所で敗れた、と書いています。
最終的に敗れたことは、どの資料も一致しています。私が引っかかったのは、その前段の「市裁判所で勝訴した」という部分です。1965年にDuke Law Journalに掲載されたAllan P. Cramerの論文は、市裁判所が訴えを退け、最高裁がそれを支持したと書いているからです。では、市裁判所では実際に何があったのでしょうか。
1958年、モスクワへ
まず、提訴の時点の記録を見てみます。1958年10月17日付の『The Harvard Crimson』は、ソ連から戻ったバーマンが、西側の弁護士がソ連の民事裁判所に起こした、おそらく最初の訴訟を提起してきたと報じています。
記事によると、バーマンはドイルの遺族側を代理して、ソ連の国営出版社4社と文化省を相手取り、ドイル作品、主にホームズ物語の出版による利益から約200万ルーブルの支払いを求めました。注目したいのは、このときバーマン自身が「裁判所はいま、この事件を審理するかどうかを決めているところだ」と語っていることです。受理されれば翌年8月に再びモスクワへ行き、退けられれば共和国最高裁に不服を申し立てられる、とも述べています。
つまり1958年10月の時点で、争点は勝ち負けではなく、そもそも訴えが受理されるかどうかでした。
著作権ではなく「不当利得」で
この訴訟の中身を最もよく伝えてくれるのは、バーマン本人が書いた「Rights of Foreign Authors Under Soviet Law」です。Bulletin of the Copyright Society of the U.S.A.第7巻第2号(1959年12月)に掲載されたもので、1959年8月17日にロシア共和国最高裁でバーマンがロシア語で行った口頭弁論を、やや短縮して英訳し、注を付けたものです。発行団体のサイトで、第7巻全体のPDFが無料で公開されています。
これによると、バーマンは1958年9月24日、モスクワ市裁判所長に訴状を提出しました。依頼人は、ドイルの息子で「The Sir Arthur Conan Doyle Estates」の受託者(trustee)だったアドリアン・コナン・ドイルです。原告はこの遺産管理団体の名義になっています。被告は文化省と、外国語図書出版所、国立文学出版所(ゴスリティズダート)、児童図書出版所(デトギズ)、地理出版所(ゲオグラフィズダート)の4社です。
先に見たとおり、ソ連の著作権法に頼っても勝ち目はありません。そこでバーマンは、著作権侵害を主張することをはじめから避けました。ソ連の出版社がドイル作品を無断で出版すること自体は合法だと認めたうえで、ロシア共和国民法399条の「不当利得」を根拠にしたのです。法律上の根拠なく他人の負担で利益を得た者は、それを返還しなければならない、という規定です。
請求額は2,033,347ルーブルでした。被告が1957年5月1日までにドイル作品の出版で受け取った金額の15%にあたる、というのが原告側の説明です。15%という率については、原告がふだん他国の出版社に作品の使用を認める際の通常の条件だ、とバーマンは述べています。
弁論では、「各人にはその労働に応じて」というソ連の憲法原則や、マルクスの言う「搾取」まで引き合いに出して、外国の著作者の労働の成果から利益だけを得るのは搾取にあたる、と論じています。ソ連法の論理の内側から支払いを導こうとした組み立てで、読んでいてなかなか面白いものでした。
レーニン図書館のカードが語る部数
シャーロッキアンとして興味深いのは、訴状に挙げられたソ連でのドイル作品の出版データです。バーマンの注によれば、これらの数字はモスクワのレーニン図書館のカード目録から集めたものでした。カードには各書の発行部数と定価が記されていたのだそうです。
- 1955年、国立文学出版所『バスカヴィル家の犬』52万5000部、定価2ルーブル50コペイカ
- 1956年、外国語図書出版所の英語版短編集The Blue Carbuncle and Other Stories 50万部、定価2ルーブル25コペイカ
- 1956年、児童図書出版所『シャーロック・ホームズの思い出』30万部、定価12ルーブル
- 1956年から1957年4月まで、地理出版所『失われた世界』2版で計30万部、『マラコット深海』15万部
さらにバーマンは、1957年後半から1959年にかけての版について、詳しい数字は得られなかったものの100万部を優に超えると見込み、それまでのドイル作品の合計をおよそ500万部、売上を約2500万ルーブルと見積もっています。ただし本人も注で、訴状は全部数が売れたと仮定しており、出版社が定価をそのまま受け取ったとする点は誤りだった、と認めています。これらの数字は、あくまで原告側の推計として読むべきものです。
モスクワ市裁判所で起きたこと
さて、問題の市裁判所です。あらかじめ断っておくと、ここでいう「一審」は、法廷で双方の主張を聞いたうえで下された判決ではありません。バーマンの注によると、ソ連の民事訴訟では、まず裁判官が1人で訴状を審査し、訴えを受理するか却下するかを決めます。この段階で当事者が意見を述べる機会はありません。
1958年11月15日、モスクワ市裁判所のB・M・カラビン判事は、審理を開かずに訴えを却下しました。理由は、外国の著作者はソ連著作権法で保護されないこと、そして民法399条を持ち出すのは根拠がないこと、の二点だけだったといいます。バーマンは、判事が原告の主張をばかげていると考えて、まともに答えようともしなかったようだ、と書いています。
この点は、裁判所側の記録でも確かめられます。同誌第7巻第5号(1960年6月)には、バーマンの協力で入手されたロシア共和国最高裁の決定の英訳が掲載されています。そこでも、不服申立ての対象は、1958年11月15日付の「モスクワ市裁判所の一裁判官による、訴えを退けた決定」とされています。
つまり市裁判所の段階は、中身の審理に入る前の却下、いわば門前払いでした。現在確認できる同時代の資料の範囲では、ドイル側が市裁判所で勝訴したことを示す記録はなく、反対に、訴えの却下を示す記録が複数あります。
1959年8月17日、最高裁で
バーマンはこの却下決定に対して不服を申し立て、1959年8月17日、ロシア共和国最高裁の民事部で、ロシア語で弁論しました。決定の英訳によれば、裁判体はM・I・コヴァリキン裁判長と、A・P・ベロフ、L・M・アレクサンドロフスカヤの3人です。バーマンは当初、モスクワ弁護士協会(Moscow College of Advocates)外国法部の部長に代理を頼んでいましたが、1958年9月になって「望みがない」として辞退されたため、単独での弁論になりました。
弁論の冒頭でバーマンは、原告は勝てると思って訴えているのではない、と述べています。19世紀ドイツの法学者イェーリングの言う「権利のための闘争」として、勝っても負けても法の手続きで権利を求めることに意味がある、という立場でした。
バーマンによれば、弁論の途中、裁判長は、翻訳の権利、時効、相続の三つの論点は訴えを退ける理由にならない、と原告に同意する場面もあったそうです。しかし結論は変わりませんでした。これもバーマンによれば、裁判所は約45分の合議のあと、短い決定を読み上げました。
決定は、イギリスとソ連のあいだに協定がない以上、ドイルの相続人には、ソ連国内での再出版に対する報酬を求めて裁判所に訴える権利がない、としています。そして、著作権法がある以上、別の根拠で報酬を求めるのはその法律の回避にあたるとして、市裁判所の判事が訴えを退けたのは正しかった、と結論づけました。バーマンによれば、この決定に対しては、それ以上の上訴の道はありませんでした。
なお、バーマンは弁論の最後で、外国の著者に純利益の数%を支払う仕組みを、文化省自身が採用してはどうかと提案しています。訴訟の勝敗を超えて、制度をつくるきっかけにしたいという狙いがあったことは、1958年の『Crimson』の記事からも読み取れます。
後日談:ロンドンの展示会から消えた本
モスクワの訴訟が終わっても、話はそこで終わりませんでした。同誌第7巻第4号(1960年4月)のニュース欄は、『ワシントン・ポスト』に載ったロイター電として、ソ連当局がロンドンで開かれたロシア図書の展示会から、ドイル作品を含む約50冊を撤去したと伝えています。ドイルの本はイギリスでは著作権で保護されている、という警告を受けたためでした。
展示会を運営していた代表団の団長は、撤去は「友好関係を保つため」だと説明したそうです。モスクワの法廷では認められなかったドイルの権利が、ロンドンでは展示の場から本を下げさせた、という皮肉な結末です。ただし、展示会の正式な名称や会期、撤去の経緯の詳細は、この短い記事からは分かりません。
「市裁判所で勝訴」という記述について
ここからは私の推測です。バーマン自身は弁論の中で、市裁判所も最高裁も、外国人である原告の手続き上の権利には寛大だったと述べています。実際、ソ連の弁護士でないバーマンが訴状を出すことを認められ、市裁判所の決定は上訴の権利をバーマンの名前を挙げて認め、上訴期限の延長も許されました。
こうした手続き上の扱いが、後年の回想や伝聞の中で「市裁判所で勝訴した」という表現に変わった可能性はあります。もっとも、これは今の段階では推測にとどまります。現在確認できる同時代の資料の範囲では、勝訴を示す記録はなく、市裁判所による訴えの却下と、それを維持した最高裁の決定を示す記録が複数あります。
おわりに
冒頭で触れたMellinaの論文は、要旨によれば、アーカイブ資料をもとに、バーマンの狙いがこの訴訟の解決にとどまらず、米ソの法律家どうしを結びつけることにあったと論じ、バーマンを米ソ間の「法文化外交」の先駆者と位置づけています。ホームズの受容史というよりも、冷戦期の法と外交の歴史の中にこの事件を置いた研究といえそうです。本文が読めるようになったら、あらためて紹介したいと思います。
ソ連で何百万部も読まれていたホームズ物語の裏側で、ハーバードの法学者がロシア語で「権利のための闘争」を挑んでいた。そう考えると、レーニン図書館のカード目録の一枚一枚にも、少し違った重みが感じられてきます。
参考文献
※事件名・原告名の表記は資料によって異なります(Estate of Arthur Conan Doyle/The Sir Arthur Conan Doyle Estates など)。ウェブ資料の公開状況は2026年10月17〜18日に確認しました。
- Berman, Harold J. “Rights of Foreign Authors Under Soviet Law.” Bulletin of the Copyright Society of the U.S.A. 7, no. 2 (December 1959): 67–81, Item 85. PDF
- “Estate of Arthur Conan Doyle v. Ministry of Culture of the U.S.S.R., et al. (Supreme Court, R.S.F.S.R., Case No. 5-573d9, 1959).” Bulletin of the Copyright Society of the U.S.A. 7, no. 5 (June 1960): 246–247, Item 325. PDF
- “Reds Remove Doyle’s Books from Exhibit.” Bulletin of the Copyright Society of the U.S.A. 7, no. 4 (April 1960): 200, Item 288. PDF
- “Soviets Sued for Sabotaging Sherlock.” The Harvard Crimson, October 17, 1958. Web
- Cramer, Allan P. “International Copyright and the Soviet Union.” Duke Law Journal 1965: 531–(本件の記述は第4節、注44–45). PDF
- Dupraz, Emily. “Harold J. Berman, 1918-2007.” Harvard Law School, November 13, 2007. Web
- Mellina, Marco. “Sherlock Holmes in Moscow, revisited: Harold J. Berman and US-Soviet legal cultural diplomacy in the 1950s.” Cahiers du monde russe 67, no. 3 (2026): 377–397. DOI: 10.4000/16ydi. OpenEdition

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