2026年8月27日:ポーランドのホームズ受容史を掘る(前編)——舞台化編

シャーロッキアン日記

ここのところ「ホームズ後継者もの」の比較記事や研究ガイドの執筆で手一杯だったのですが、資料整理の合間に読んだ一本の論文がきっかけで、寄り道することになりました。Barry Keane氏による「Poland’s First Stage Adaptations of Arthur Conan Doyle’s Sherlock Holmes」という論文です。ポーランドにおけるホームズの舞台化がどのような経路をたどって実現したのか、詳しく書かれていて、読みながら思わず手が止まりました。せっかくなので前後編に分けてまとめることにします。前編は舞台化史、後編では、そこから派生して調べたポーランド語翻訳史・ラジオ・テレビ・ファン文化についてまとめます。

ジレット版がドイツ経由でクラクフへ

まず驚いたのが、ホームズの舞台化がポーランドに届いた経路です。ウィリアム・ジレットが1899年にブロードウェイで初演した戯曲『Sherlock Holmes』は、その後ヨーロッパ各地を巡演しましたが、ポーランドに直接入ってきたわけではありませんでした。ドイツの劇作家アルベルト・ボーゼンハルト(Albert Bozenhard)による翻案が1906年7月24日にミュンヘンの「Münchener Volkstheater」(市民劇場、ミュンヘン国立劇場=Nationaltheaterとは別の劇場)で初演され、この版がクラクフに持ち込まれたのです。

Keane氏の指摘によれば、クラクフ市立劇場に残る手稿(無記名の翻訳)を検証すると、ボーゼンハルトはほとんど翻案らしい翻案をしておらず、単なる翻訳を「翻案」と称して上演権料を多めに請求していた可能性が高いとのことです。もっとも、当時のポーランドの外国戯曲上演における上演権料の支払いはそれ自体が曖昧な慣行だったようで、ジレットもボーゼンハルトも実際には一銭も受け取っていなかった可能性がある、とも書かれています。この時代の劇場興行の裏事情として興味深い指摘でした。

1906年11月17日、クラクフ初演

ポーランドにおけるホームズ初の舞台化は1906年11月17日、クラクフ市立劇場で幕を開けました。主演のアレクサンデル・ゼルヴェロヴィチ(Aleksander Zelwerowicz)は当時劇場でも屈指の高給取りの俳優で、ほぼ全編出ずっぱりの大役をこなしたそうです。初日から3公演は満員御礼だったとのことで、興行的には成功を収めています。

ただし批評は割れました。無記名の『Głos Narodu』紙評は好意的で、今後もホームズ劇が上演されることを望むとまで書いていますが、劇評家コンラト・ラコフスキ(Konrad Rakowski, 1906)はやや辛口で、自分も観客も謎解きの答えをホームズより先に見抜いていたと皮肉っています。ラコフスキ自身はこの「先読み」の理由を、当時流行していたフランス風ファルス劇(謎解き的などんでん返しの多い喜劇)を見慣れていたためだと分析しているのが面白いところです。批評家ヴィルヘルム・フェルドマン(Feldman, 1907)はさらに大きな文脈で、外国戯曲ばかりが上演されポーランド劇が疎かにされている状況を憂いていました。

ライバル版——フェルディナント・ボンのコメディ版

クラクフのジレット=ボーゼンハルト版と並行して、ドイツにはもう一つのホームズ劇が存在していました。Keane論文によれば、劇作家フェルディナント・ボン(Ferdinand Bonn)は1901年にコメディ版『Sherlock Holmes』を書いたとされています(ただし、他の複数の欧文資料ではボンのホームズ劇の初演を1906年とするものもあり、執筆年と初演年の違いか、資料間の食い違いかは今後の確認課題です)。このルヴフ(Lwów)向けの版は1907年3月12日、ルヴフ市立劇場で初演されました(M・サホロフスキ訳)。ホームズ役はフェルディナント・フェルドマンが演じ、貴族の遺言消失事件を解決する筋立てで、犯人役の名は「Dr More」——『まだらの紐』のロイロット博士を思わせる名づけです。

こちらの評判はクラクフ版よりも芳しくなかったようです。批評家カロル・バラノフスキ(Baranowski, 1907)はこれをヨーロッパで巡演していたホームズ劇の中でも最悪の部類だと酷評し、観客も期待外れで劇場を後にしたと書いています。もう一人の批評家アルフレト・ヴィソツキ(Wysocki, 1907)も同意見でしたが、翻訳者サホロフスキの訳文自体は生き生きしていて評価できると付け加えています。共演陣がセリフを覚えきれておらず、間延びした空白が目立ったという指摘も辛辣でした。

気になった余談——グリセリンで死者の目を蘇らせる?

本筋からは逸れますが、Keane論文の締めくくりに紹介されていたエピソードも書き留めておきます。1908年の『Dziennik Poznański』紙の記事によれば、ある「ミノヴィーニ教授」なる人物が、水死体や腐敗した遺体の目にグリセリンを注入し、死の瞬間に失われた瞳の輝きを蘇らせるという手法を編み出したそうです。容疑者を「生き返った」被害者と対面させることで、動揺した容疑者から自白を引き出すことを狙ったものだとか。真偽のほどはともかく、ホームズが刑事捜査の革新を促したことに関連する挿話として紹介されていました。

舞台化の経路はこれでひとまず追えましたが、調べているうちに、ポーランド語圏における翻訳史やラジオ・テレビでの受容にも興味が湧いてきました。そちらは後編でまとめます。

参考文献・出典

  • Keane, Barry. “Poland’s First Stage Adaptations of Arthur Conan Doyle’s Sherlock Holmes.” In Scotland in Europe / Europe in Scotland: Links – Dialogues – Analogies, edited by Aniela Korzeniowska and Izabela Szymańska, 110–116. Warszawa, 2013. (Academia.eduページ

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