ホームズが世に出て日も浅い1888年の秋、ロンドンのイーストエンドでは、ある「事件」が英国じゅうを震撼させていました。ホワイトチャペル連続殺人事件、通称ジャック・ザ・リッパー事件です。
ホームズ研究の立場からこの事件を眺めるとき、私が興味を惹かれるのは、犯人捜しもそうですが、「なぜロンドン警視庁はこの事件を解決できなかったのか」という問いです。そして思うのはホームズであれば犯人を突き止められたのではないか、さらに発展して実はホームズが密かに犯人を突き止めていたのではないか、という空想です。すでに、そのような小説は多々ありますし、シャーロッキアンにはお馴染みの、ベアリングーグールドもホームズの伝記の中でこの事件に取り組んでいます。
今回は、Google Scholar Alartのお知らせで知った、この問いに現代の危機管理理論から光を当てた興味深い論考――Brian W. Schoenemanによる“Crisis for Scotland Yard: A Crisis Management Based Analysis of the Whitechapel Murders”を読み解きながら、一次資料による検証を交え、あわせてホームズという同時代の私立諮問探偵の手法がいかに際立っていたかを考えてみたいと思います。
シェーンマン論文とは
この論考は、危機管理論の観点からホワイトチャペル事件を分析したもので、著者はワシントンD.C.圏在住とおぼしき人物です。文中でベルトウェイ・スナイパー事件(2002年)との比較がなされていることから、執筆時期は2002〜2003年頃と推定されます。
余談ですが、私もかつてワシントンDCで2年ほど仕事をしていたことがあるのですが、着任当初話題になっていたのがこのスナイパー事件でした。すぐに解決されて安堵したものでした。
学術誌の査読論文ではなく、大学院レベルの研究レポートをCasebookに転載したものとみられますが、危機の4段階(前兆期・急性期・慢性期・解決)に沿って事件の経過を丹念に追っており、一読の価値がある内容です。
内容をもう少し詳しく見てみると、この論文はスティーヴン・フィンクが提唱する危機の4段階モデル(前兆期・急性期・慢性期・解決)に沿って、切り裂きジャック事件におけるロンドン警視庁の対応を分析しています。事件発生前から組織批判にさらされていたロンドン警視庁は、いざ危機が起きると、内務大臣マシューズ・警視総監ウォレン・CID次長マンローという指導部内の個人的対立や、CIDの人員不足、報奨金を出さない判断、ブラッドハウンド導入の迷走などが重なり、対応が後手に回ります。事件が長期化する中で報道による批判が加速し、世論の信頼は決定的に失われていきました。著者は2002年のベルトウェイ・スナイパー事件との比較を交えながら、犯人逮捕そのものは当時の技術水準では困難だったとしつつも、Metの本質的な失敗は捜査能力よりも世論・報道のコントロールにあったと結論づけています。指導部が結束し、広報戦略を早期に持っていれば、少なくとも『無能な警察』という後世に残るイメージだけは避けられたはずだ、というのが論文全体を貫く主張です。
一次資料で検証してみる
論文を読みながら、いくつかの箇所を一次資料に当たって確認してみました。結果として、論文の分析の大枠は妥当と思われる一方、いくつかの日付・事実関係に修正すべき点が見つかりました。
1829年警察法の裁可日
論文は1829年の警察法(メトロポリタン・ポリス法)の国王裁可日を5月25日としていますが、これは誤りです。同法の国王裁可・施行日は1829年6月19日です。単純な誤記か、誤った参照によるものと思われます。
ウォレン辞任の日付
論文は、ウォレン警視総監の辞任を「メアリー・ジェーン・ケリー殺害と同じ11月9日」としていますが、英国議会議事録(ハンサード)における内務大臣マシューズ自身の下院答弁によれば、ウォレンの辞表提出は11月8日です。「同日の劇的な符合」という論文の演出は、一次資料に照らすとやや不正確と言わざるを得ません。もっとも、辞任のニュースが広く世間に知れ渡ったのは週末(11月10〜11日頃)で、ケリー殺害の衝撃と時期的に重なったため、こうした「同日」という印象が定着した可能性はあります。
マンロー辞任の実態
論文は、ジェームズ・マンロー(CID担当次長)の辞任によってCIDが「指導者不在」に陥ったと述べていますが、これは実態をやや単純化しています。マンローは1888年8月31日付でCID次長を辞任した一方、内務大臣マシューズによって特別課(Special Branch)の責任者として実質的に留任し、内務省内に執務室まで与えられていました。アンダーソンをはじめとするCID幹部は、リッパー事件の捜査中も、ウォレンの目を盗んでマンローに相談を続けていたとされます。つまり実態は「指導者不在」ではなく、表の指揮系統(ウォレン→アンダーソン)と、内務省を経由する裏の指揮系統(マシューズ⇄マンロー)が並存する二重権力構造であり、これはむしろ論文の「Metの内紛が危機を悪化させた」という核心的主張を、より強い形で裏付ける事実と言えます。
アンダーソンの休暇
CID次長アンダーソンの休暇についても、論文は「就任と同日にニコルズが殺害され、出発と同日にチャップマンが殺害された」という劇的な構成を取っていますが、アンダーソンの就任はニコルズ殺害の翌日(9月1日)です。また出発日についても資料間で9月7日説と8日説が分かれており、確定的な「同日の符合」とまでは言えません。
グールストン・ストリートの落書き
論文はこの落書きの文言を、あたかも一義的に確定した一文であるかのように引用符付きで示していますが、実際には現場に居合わせた警官・捜査官の記録だけで少なくとも5通りの異なる書き起こしが存在します(PC Long版、ダニエル・ハルス版、フレデリック・フォスター版、スワンソン版など)。論文が典拠とするSugdenも、これら複数の記録から一つを選んで採用しているに過ぎません。また消去の意思決定も、論文が描くような「ウォレン単独の決断」ではなく、City警察との間で撮影の可否をめぐる応酬があった末の判断でした。
まとめ
こうして見ていくと、論文には共通する傾向があります。「劇的な日付の符合」を強調する形で物語を構成する一方、一次資料で検証すると多くが数日程度のズレを含んでいる、という点です。これは意図的な捏造というより、二次文献の要約時に生じた圧縮・単純化と見るのが妥当でしょう。ただし危機管理理論としての骨格――Metの指導部内紛、広報戦略の欠如、CIDの構造的な脆弱性――は一次資料でも裏付けられており、分析の大枠は十分に評価に値します。
もう一つの視点――ホームズの方法論とヤードの遅れ
この論文を読みながら私が改めて感じたのは、当時のCIDに欠けていた「体系的な科学捜査」という視点を、ホームズという私立諮問探偵が既に何年も先取りしていたという事実です。
『緋色の研究』でホームズは、グレグスンとレストレードについて、二人とも有能で精力的だが、恐ろしく紋切り型であり、互いに功を競い合うあまり嫉妬深いとまで評しています。これは1881年――ホワイトチャペル事件の7年前――の発言ですが、シェーンマン論文が指摘するマシューズ・ウォレン・マンロー三者の個人的対立による機能不全と、驚くほど同じパターンを言い当てています。組織としてのヤードが抱える構造的な欠陥を、ホームズは早くから見抜いていたことになります。
また、ホームズは『緋色の研究』の冒頭で、ヘモグロビンの検出試薬を独自に完成させていますが、これは当時の公式捜査機関には存在しない発想でした。『四つの署名』で言及される140種のタバコの灰を識別する研究、足跡の追跡と石膏による型取りの研究、『バスカヴィル家の犬』での文書の年代鑑定の腕前――こうした個人的な研究の蓄積は、史実の警視庁が指紋部を設立する1901年より、優に十数年先んじています。ヤードが最初に導入したのはベルティヨン式(身体測定による識別)であり、これは個々人の微細な特徴に着目するホームズの手法とは、そもそも発想の系譜が異なります。この点は海外の研究者からも「ドイルはホームズに、公式の警察機構が採用するより何年も前に手法を用いさせている」と指摘されているとおりです。
ホワイトチャペル事件で警視庁が導入を試みたブラッドハウンド(バーナビーとバーゴ)の顛末――買い取り交渉の不徹底により、最も必要とされた瞬間に犬が不在だったという醜態――も、『四つの署名』でホームズが個人の伝手で借り受けたトビーを機動的に使いこなした場面と対比すると、組織の硬直性と私立探偵の機動性という構図が浮かび上がってきます。
おわりに
以上、シェーンマン論文の検証を通じて、ホワイトチャペル事件という「ホームズと同時代の大事件」を、危機管理論と一次資料の両面から眺めてみました。スコットランドヤードの失敗は、犯人を捕らえられなかったことそのものよりも、世論をコントロールできなかったことにあるという論文の指摘は、一次資料による検証を経てもなお説得力を保っています。
そして、もしこの時期のロンドンに、灰や足跡の研究を独自に重ねてきた私立諮問探偵が本腰を入れて関わっていたら――という想像は、シャーロッキアンとしてどうしても膨らんでしまうところです。私もなんとかこの主題に取り組みたいと思い、ジャック事件の研究を進めつつパスティーシュの執筆に着手していたのですが、事件の謎が深すぎて、なかなか核心部分が欠けずにいます。ホームズと切り裂きジャックについては長くなりそうなので、いずれ稿を改めて考えてみたいと思います。

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