ロンドン大学SOAS(東洋アフリカ研究学院)から、清朝末期から民国初期にかけての中国語版ホームズ翻訳を扱った博士論文が公開されましたので、ご紹介します。
Chen, Yingxin (2026). Sherlock Holmes in Chinese: Translation and Literary Transformation [PhD thesis, SOAS University of London]. https://doi.org/10.25501/soas.1092044
どんな論文か
著者の陳映欣(Yingxin Chen)氏は、1896年から1916年にかけて中国語に翻訳されたホームズ譚を対象に、それらが単なる娯楽読み物の輸入ではなく、法・科学・共同体をめぐるヨーロッパの新しい概念と中国の知的伝統とが出会う「場」であったことを論じています。指導教員はWen-chin Ouyang教授とCosima Bruno博士です。
論文全体の骨格になっている考え方は「概念史(conceptual history)」と「概念ブレンディング(conceptual blending)」という枠組みです。ホームズ翻訳の中で「法(law)」「観察(observation)」「探偵(detective)」といった語や概念がどのように中国語へと移し替えられ、変容していったかを丹念に追いながら、それが同時代の公案小説(伝統的な中国の裁判官もの小説)の展開とも並行していたことを示す、という構成になっています。
章立てと内容序論
研究背景・先行研究整理・コーパス(1896〜1916年の初期翻訳群)・理論的枠組みを提示。
第1章:1896年、変法運動期の改革派新聞『時務報』に掲載された最初期の4篇のホームズ翻訳を、同紙が並行して伝えていた裁判記録・犯罪報道と並べて検討。「探偵」概念が]、清末の警察制度改革や偵探学堂(探偵養成学校)設立の機運とどう結びついたかを論じます。
第2章:「法の支配(rule of law)」という観念が1916年の翻訳でどう表現されたか。法と道徳の分離への志向がある一方、天道・因果応報的な「宇宙的正義」への信頼も根強く残っていたことを指摘。犯罪学における遺伝・先祖返り(atavism)・社会環境要因の受容も扱われます。
第3章:「観察」概念の受容史。ヨーロッパ科学史における観察概念の系譜から説き起こし、中国語訳語「観察」が実は実証主義(empiricism)を表す新造語として、この時期に定着していったプロセスを解明。虫眼鏡(拡大鏡)の翻訳表現の変遷も扱っています。
第4章:ホームズ像そのものの中国的変容。知性・共感・道徳的高潔さといったホームズの人物造形が、「情(感情・情緒的知性)」と「俠(侠気)」という中国的概念によって再構成され、近代的な国民像の形成に一役買ったと論じます。
第5章:公案小説の展開、とりわけ包青天(判官・包拯)を中心とした物語群が、ホームズ翻訳と並行してどう変容したかを検討。前章までの「法」「観察」「情・俠」の概念ブレンディングを踏まえ、包拯・公孫策・展昭という三者を「知性・感情・俠気の理想的体現者」として位置づけ、20世紀のテレビドラマまで射程に入れて論じています。
読みどころ
シャーロッキアン的には、翻訳された固有名詞や文物の変遷(虫眼鏡の描写など)そのものも興味深いのですが、それ以上に、ホームズという一人の探偵像が、中国近代化・国民国家形成というマクロな文脈の中でどのように「翻訳=変容」されていったかを、具体的な語彙レベルの分析から実証している点が読みごたえがあります。日本語訳(延原謙訳など)との比較対象としても、示唆に富む一冊だと感じました。

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