2026年9月28日:Liberton Bank House――少年ドイルの足跡を検証する

シャーロッキアン日記

The District Messenger 第467号の訃報欄に、David J Black氏という名前がありました。「Liberton Bank Houseの保存に尽力した」「ドイルがエディンバラで暮らした場所をすべて特定した」人物だったとのことです。ただし先に断っておくと、調べていく過程で、Black氏個人とこの家との具体的な関わりを裏づける一次資料には行き当たりませんでした。そこで今回は、Black氏の功績そのものよりも、彼の訃報がきっかけで知った「Liberton Bank House」という建物と、そこにまつわるドイルの幼年期の伝承を、資料に即して検証してみることにしました。

Mary Burtonとこの家

Liberton Bank Houseは、エディンバラ南部Liberton地区に建つ18世紀後期の建物です。

Liberton Bank House – Scottish Historic Buildings Trust

場所を特定しようと調べたのですが、住所表記にばらつきがあり、Google Map上では検索が非常に難しくなっていました。上記の公式サイトで示されているこの場所が当該の建物だと思われますが、地図上ではLeberton Bank Houseの表記はありません。また、別のサイトでは、住所表記が1 GILMERTON ROADとなっていますが、ストリートビューで見た時に明らかに建物が違うように見えます。

Liberton Bank Houseは、現在のCameron Tollショッピングセンター駐車場の一角、Braid Burn北岸に位置しているということで、上記の地図で間違いないと思います。HESなどの指定記録上の住所は「1 Gilmerton Road」ですが、現在の地図サービスでこの番地を検索すると異なる場所が表示されるということのようです。訪問の際は「Cameron Toll」を目印にする方が確実です。

Historic Environment Scotland(HES)の記録によれば、1844年から1898年までの半世紀以上にわたり、この家の借家人だったのがMary Burtonという女性です。歴史家John Hill Burtonの姉にあたり、女性教育の推進者、女性参政権運動家としても知られ、Scottish Historic Buildings Trust(SHBT)の記述では1874年にWatt Institution(現Heriot-Watt University)の理事会に加わった最初の女性だったとされています。ドイル家とバートン家は家族ぐるみで親しい間柄でした。

Maryの甥には、のちに日本で技師・写真家として活動したWilliam K. Burtonがいました。二人がこの家で出会ったとする伝記的記述もあります。ドイルは後年、小説『The Firm of Girdlestone』を東京在住の彼に捧げ、献辞のなかで「古くからの友人」と呼んでいます。ただし、二人が初めて会った場所を示す同時代の記録については、さらに確認が必要だと考えています。

ドイル滞在を示す証拠

少年時代のドイルがこの家に預けられていたのは、父Charlesのアルコール依存の影響から遠ざけ、近くのNewington Academyに通わせるためだったとされています。HESの記録が滞在の物証として挙げているのは、Mungo Parkの著書Travels in the Interior of Africaに記されたある献辞です。「Arthur Conan Doyle / With Papa’s and Mama’s love and best wishes / New Year’s day 1866 / Liberton Bank」――この一文が、少なくとも1866年の元日時点でドイルがLiberton Bankと結びついていたことを示す、具体的な証拠として扱われています。HESはさらに、息子Adrian Conan Doyleが著書The True Conan Doyle(1946年)9頁で、父がLiberton Bankで少年期を過ごしたことに言及していると記しています(献辞の実物や写真そのものを私自身が確認できたわけではありません)。なお、この記録は滞在の開始・終了年を明確に定めているわけではなく、「1860年代半ばから後半にかけてのある期間」という幅のある書き方になっています。通学したNewington Academyの在学期間(1866〜68年)を、そのままこの家での全滞在期間と同一視できないとは思いますが、概ねこの時期と重なってると考えるのが自然でしょう。

虎の物語をめぐる資料の食い違い

Liberton Bank Houseがしばしば語られるのは、「ドイルが最初のフィクションをここで書いた」という逸話ゆえのようです。実際に調べてみると、これは強い根拠のある話ではありませんでした。

ドイル自身は自伝Memories and Adventures第1章で、男と虎が登場する幼いころの物語を回想しています。「私は幼いころに小さな本を書き、自分で挿絵も描いた。男が出てきて、虎が出てきて、二人は出会ってすぐに一体化してしまった」という趣旨の記述です。ただしここには年齢も、執筆場所も記されていません。

ドイルは随筆「Juvenilia」で、男と虎の物語を6歳のときに書いたと回想しており、これは後年の『Memories and Adventures』にある男と虎の回想と内容がよく対応しています。ところが、1864年4月11日付でドイルの大伯父Michael Conanが母Maryに宛てた手紙には、「肉食の虎へのArthur坊やの同情ぶりが実に滑稽だ」という一節があります。この手紙の時点でドイルは4歳(ほぼ5歳)だったはずです。

ここで未証明なのは、二つの回想が同一の作品かどうかではなく、主にこの1864年の手紙が「Juvenilia」に出てくる虎の物語そのものに言及しているかどうかです。手紙の文言は虎への同情ぶりに触れているだけで、原稿や執筆行為、題名を直接示しているわけではありません。なお、この物語の原稿は「Bengal」という語で途切れる断片が現存すると紹介されていますが、断片自体からは執筆年も場所も判明しません。

HESとSHBTは、この物語をLiberton Bank Houseで書かれたものとして紹介しています。しかし、今回確認した本人の回想(「Juvenilia」と『Memories and Adventures』)はいずれも執筆場所を示しておらず、1864年の手紙も対象作品への言及かどうかが未確定です。つまり、公的機関・保存団体側の説明と、現時点で確認できる本人の証言・同時代資料との間には、まだ埋まっていない距離があるようです。「少年ドイルが最初のフィクションを書いた家」という紹介は、伝承としては魅力的ですが、その根拠は私が確認した範囲では、なお検証を要すると言えそうです。

解体危機と保存

Liberton Bank Houseは1997年に指定を解除され、マクドナルドの出店を含む再開発のため解体される計画が持ち上がりました。SHBTの記述によれば、これに対して地元住民らが反対の声を上げ、2000年にはCategory C指定の建造物として再指定されています。その後、2006年に取得・着工し、2007年6月に完了した修復工事は、Cockburn Conservation Trust(現在はSHBTの一部)がGroves-Raines Architectsの設計のもと、80万ポンド弱をかけて行ったものです。現在はDunedin School(支援を必要とする子どもたちのための施設)として使われています。

おわりに:David J Black氏について

この記事のきっかけとなったBlack氏は、ジャーナリスト・郷土史家として知られ、エディンバラの歴史的建造物を守る運動に長年関わった人物のようです。2026年に78歳で亡くなる直前まで、Atholl Crescentの18世紀建築群をカプセルホテルに改装する計画への反対運動を主導していたことは確認できました。しかし、Liberton Bank Houseの保存やドイルの居住地調査における氏の具体的な役割については、今回参照した資料(SHBTの記述、氏の訃報記事)のいずれにも記載がなく、裏づけが取れませんでした。もし当時の記事や証言に行き当たることがあれば、続報として書き足したいと思います。

出典

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