2026年10月3日:ホームズの「モノ」から読者の「世界」へ:David McLaughlin の研究を追う

シャーロッキアン日記

Academia.edu に公開されている “Sherlock Holmes’s Things” という発表原稿を読みました。ホームズ物語に出てくる杖や懐中時計、変装の小道具を手がかりに、人とモノの関係を論じた文章です。書いたのは David McLaughlin(Dave McLaughlin)という文化地理学者です。この人が2024年に、ホームズ・ファンの活動そのものを扱った単著を出していると分かり、本を注文しました。届くまでの間に、公開されている業績を整理してみました。

以下では、初期の発表原稿から博士論文、論文、2024年の単著へとたどりながら、McLaughlin の関心が物語内のモノから、ホームズの世界を歩き、書き、地図にする読者たちへ移っていく過程を見ていきます。

この発表原稿について

発表は2014年4月25日に、ケンブリッジ大学の研究センター CRASSH で開かれた “Thinking with Things” という一日のワークショップで行われました。CRASSH の告知ページのプログラムに、午後の「Literature and Drama」のパネルとして、Dave McLaughlin(地理学部)の “Sherlock Holmes’s Things” が載っています(原稿内の綴りは CRASHH ですが、センターの正式名称は CRASSH です)。本人のブログによれば、博士課程1年目のこの発表が、自身にとって最初の conference presentation でした。

その後、この発表をもとに内容を増補した版が、ポーツマス大学の “Detecting Objects: Materials and Detective Fiction” シンポジウムでも読まれました。本人は、CRASSH 版で削っていた箇所を戻し、内容を加えたと書いています。Academia.edu の PDF がどちらの発表段階にあたるのかは、確認できていません。

着想の出どころも、本人が書いています。Jane Bennett の、モノは固有の活力をもつという議論と、モノに強く惹かれる人を指す「hoarder」という言葉から、ホームズのモノへの並外れた敏感さを論じられないかと考えた、という経緯です。

内容は、ホームズ物語での人とモノの関係を扱った試論です。前半では、人物がモノによって形づくられる例(モーティマー医師の杖、変装の小道具、手紙)を挙げています。後半では、モノの側にも働きかける力があるのではないかと問い、ワトスンの懐中時計やホームズの部屋の品々、「脳の屋根裏部屋」の比喩を取り上げます。理論面では、Bennett や Carl Knappett らの物質文化・文化地理学の議論を借りています。発表者自身が「進行中の研究」「暫定的な次の一歩」と断っている通り、草稿段階の文章です。引用や評価をするときは、その点を踏まえる必要があります。

経歴を整理する

本人サイトの CV、大学のプロフィール、Cambridge のリポジトリ、本人のブログで確認できた範囲をまとめます。

時期 内容
2013年〜 Cambridge 大学(Emmanuel College)で地理学の博士課程。AHRC(英国の芸術・人文学研究会議)の助成を受ける
2014年4月25日 CRASSH のワークショップ “Thinking with Things” で “Sherlock Holmes’s Things” を発表。同年7月中旬までに、内容を増補してポーツマス大学のシンポジウムでも発表
2014〜2015年 米国議会図書館の Kluge Center で British Research Councils Fellow。研究題目は “Sherlock Holmes as Travel Writing: The Role of Fandom in Constructing Geographical Imaginations”
2016年 Literary Geographies 誌の特集 “The Work and the World” を編集。同号に Sherlockian の散歩を論じた論文を発表
2016年または2017年 ミネソタ大学の Sherlock Holmes Collections の友の会(Friends)のニュースレターに載せた記事で、Bryce L. Crawford 賞を受賞。本人の2016年6月の報告では同年6月、CV と UEA の記録では2017年(末尾の注記を参照)
2018年 博士号。論文題目 “Mobile Holmes: Sherlockiana, travel writing and the co-production of the Sherlock Holmes stories”
2018〜2021年頃 Brunel、Reading、York、Coventry の各大学で教職
現在 University of East Anglia(UEA)の Human Geography 講師

本人サイト(2021年更新)には、Literary Geographies 誌の編集者、Social and Cultural Geography 誌の書評編集者という役割も載っています。York 時代のプロフィールには、東京大学の Sheila Hones 教授と共同で、文学地理学のラウンドテーブルを毎年開いているとの記述もありました。

本人が語る研究の転機

2016年6月28日付の本人のブログ記事に、研究の問いが変わった経緯が書かれています。本人はこの記事に、Bryce L. Crawford Jr. Award(本人の表記)の対象になった自分の記事の本文を掲載しています。賞は、ミネソタ大学図書館の Sherlock Holmes Collections の友の会(Friends of the Sherlock Holmes Collections)が、同会のニュースレターに前の1年間に載った最優秀記事に贈るものです。

本人によれば、博士課程の当初の計画は、ドイルの物語に描かれた地理的な移動(人、物、語り手の視点の動き)を扱うものでした。ところが米国議会図書館で David Hammer の “Game” シリーズなど、ファンの書いた旅行書に触れるうちに、関心は「ドイルはホームズの世界をどう作ったか」から「ファンはその世界をどう作り、なぜそこを歩こうとするのか」へ移りました。ミネソタ大学の Sherlock Holmes Collection は、最初の研究計画を書いた時点では存在すら知らなかったそうです。訪問できたのは約1週間でした。

もうひとつ、本人の留保があります。議会図書館の資料から、ファンが現地を歩くようになったのは1970年頃以降だと考えていたところ、ミネソタで Philip “Sherlock Holmes” Hench による1950年代のライヘンバッハの滝の地図に出会い、例外があると気づいたと書いています。「20世紀後半の Sherlockian」という時代区分にも、この種の例外がありえます。

時系列では、”Sherlock Holmes’s Things” の発表(2014年4月)は、議会図書館での滞在(2014〜2015年)より前の、博士課程1年目の仕事です。つまり発表は、問いが移る前の、物語の中のモノを扱っていた時期のものと位置づけられます。ただし本人は、この回想で発表を後の研究の直接の出発点とは述べていません。

博士論文 “Mobile Holmes”

博士論文は Cambridge のリポジトリで無料でダウンロードできます(著作権は留保されています)。対象は、20世紀後半のアメリカの Sherlockian たちが書いた、ホームズの人生や世界についての地理・旅行の文章です。論文はそこから “expansionary literary geography”(拡張的な文学地理学)という考え方を引き出しています。読者が文学の創造力を意識的に使い、テキストの空間に新しい場所を付け足していく営みを指す言葉です。

具体的な章立ては四つです。ホームズの世界を地図に描こうとして境界を引き直し続ける「地図づくり」、ホームズを動かしながら正典から離れすぎないようにする「創作」、記憶や経験から世界を築く「論争」、ホームズの世界へ歩いて入っていく「文学観光」です。

地図の例として、本人の2015年のブログ記事が取り上げている Julian Wolff の地図があります。Wolff のイングランド地図は、King’s Pyland のような物語上の地名を、ホームズと無関係な実在の地名(たとえば Waterbeach)と同じ地図に並べています。本人は、これが架空の場所も実在の場所と同じように存在しうるという主張に見えると読んでいます。

ホームズに関する論文と章

  • “The game’s afoot: Walking as practice in Sherlockian literary geographies”(Literary Geographies 2(2), 2016):Arthur Axelrad の On the Scent(1984)、David Hammer の A Dangerous Game(1997)、Richard Warner の Guide Book and Instructions for the Ascent of Holmes Peak(1985)の三冊を読み、歩くことが読書であり執筆でもあると論じます。
  • “Holmes as heritage: Readers, tourism and the making of Sherlock Holmes’s England”(Creating Heritage for Tourism, Routledge 所収):1983年から2001年にかけて David Hammer が書いた Sherlockian の旅行ガイドを、ホームズを「遺産」として作り上げる試みとして読みます。
  • “Mapping enchanted landscapes in Philip Weller’s The Dartmoor of The Hound of the Baskervilles”(cultural geographies 30(2), 2023, pp.259-277):ファンの Philip Weller が作った Dartmoor の地図を、現実と虚構が混ざり合う瞬間を促す触媒として読みます。同じ地図を携えて Dartmoor を歩いた体験は、別の章 “Enchanted on Dartmoor” にもなっています。
  • “Between the Canon and the Commons”(ワーキングペーパー):ホームズが「公共の利用に開かれた」キャラクターになっていく過程を扱い、2013年に米国の裁判所がそれを法的に認めたことにも触れています。同論文が触れる訴訟は、文脈上は Klinger 対 Conan Doyle Estate を指すとみられます(私の同定で、論文本文で判例名を確認したわけではありません)。この訴訟の2014年6月の第7巡回区連邦控訴裁判所の判断では、1923年より前に出た46の短編と4つの長編に由来する要素は自由に使えるとされ、当時なお保護期間中だった後期10編に独自の要素だけが保護の対象とされました。論文が刊行されたかどうかは確認できていません。

ホームズ以外では、同じ「読むこと・書くことが共同体と空間を作る」という関心を、アメリカのアパラチアン・トレイルを歩くハイカーに向けています。Social and Cultural Geography 24(6)(2023)、Transfers 誌(2022)の論文、2026年2月刊の Bristol University Press の章などです。

2024年の単著

2024年10月に University of Wales Press の “Literary Geography: Theory and Practice” シリーズから、Making the Literary-Geographical World of Sherlock Holmes: The Game is Afoot が出ました。ISBN はハードカバーが 9781837721658、PDF が 9781837721665、EPUB が 9781837721672 です。主な資料はミネソタ大学の Sherlock Holmes Collections で、書く、地図を作る、遊ぶ、歩くという四つの実践から、20世紀後半の Sherlockian が共同で作った「ホームズの世界」を描くと紹介されています。

章立ては、序論、2章 “Watson’s battered tin dispatch-box: Reading complexity and coexistence”、3章 “Co-authoring the literary geographical world of Sherlock Holmes”、4章 “Community of circulation”、5章 “Plotting, unfolding, enchanting”(地図)、6章 “Play, performance and sensation”(遊び)、7章 “Walking Holmes into the world”(歩く)、後記です。2章の題にある “battered tin dispatch-box” は、”The Problem of Thor Bridge” の冒頭に出てくるワトスンの書類箱(”a travel-worn and battered tin dispatch-box”)と重なる語です。章がこの場面をどう論じているかは、本を読んでから確認します。

2026年には Social and Cultural Geography 27(6) に Sally Bushell による書評が載りました。私が確認できたのは冒頭の数行だけですが、この本を、文学作品への応答という新しい種類のジャンルを始める試みと位置づけているようです。書評全体の評価かどうかは、読めていないので分かりません。

本人サイトの2021年時点のページでは、この本は Palgrave Macmillan から “Playing the game: Imaginative mobilities and practical adventures in the world of Sherlock Holmes” の題で出る予定とされていました。最終的に出版社も題名も変わっています。理由は分かりません。

私の見立て

以下は事実ではなく、私の読み方です。

CRASSH に掲載された発表要旨は、物語のなかでホームズを意味づけの中心とみなしたうえで、モノはホームズが秩序を与えるのとは別に機能し続けるのではないか、ホームズの意味づけには抜け穴があるのではないか、と問いかけています。後の研究では、ホームズの世界の意味は、ドイルひとりでなく、読者たちが共同で作るものとして描かれます。対象は物語のなかのモノから読者の実践へ移っていますが、どちらも、意味を決める主体をひとりに固定しない見方だと思います。

さらに、Weller の地図を「触媒」と読む2023年の論文では、モノ(地図)が読者の体験を引き起こす側に回っています。発表が問うた「モノの側の働き」が、読者の実践という別の対象で続いているように見えました。ただし、これも私の連想の域を出ません。本人が発表と後の研究を結びつけた発言は、今回の範囲では見つけていません。

読む順番の案

  1. Walking as practice の論文:Academia で無料公開されています。三冊の Sherlockian 旅行書を知るだけでも面白いです。
  2. cultural geographies の Dartmoor 論文:UEA のリポジトリに出版版の PDF があります。
  3. 博士論文 “Mobile Holmes”:Cambridge のリポジトリから無料で読めます。
  4. 2024年の単著:手元に届いたら、読んで感想を書きます。

書誌上の注記

確認できたこと

  • “Sherlock Holmes’s Things” は、2014年4月25日の CRASSH ワークショップで発表されました。
  • 受賞対象の記事が載ったニュースレターの正式名称は、ミネソタ大学図書館のリポジトリでは “Friends of the Sherlock Holmes Collections Newsletter” です(本人のブログの表記は “Friends of the Sherlock Holmes newsletter”)。同誌2016年9月号(Vol.20 No.3)の著者に McLaughlin の名があり、同号に Bryce Crawford Award の記事もありますが、受賞対象の記事がどの号かは確認していません。

未解決次稿

  • Academia.edu に公開された原稿が、CRASSH 版か、後のポーツマス大学での増補版かは確認できていません。
  • Bryce L. Crawford 賞の受賞年は、本人の2016年6月28日付記事では同年6月で、York のプロフィールも2016年とします。これに対し、本人の CV は2017年、UEA の受賞記録は2017年12月1日です。
  • 賞の名称と授与団体にも揺れがあります。本人の記事では “Bryce L. Crawford Jr. Award”、CV と UEA の記録では “Bryce L. Crawford Memorial Essay Prize” です。授与団体は、CV と UEA では Norwegian Explorers of Minnesota、2013年の別の受賞を伝える記事では Friends of the Sherlock Holmes Collections とされています。
  • 博士号は、UEA と York のプロフィールでは2018年です。CV は在籍期間を2013〜2017年とし、Cambridge のリポジトリでは日付が2017年5月12日、公開日が2018年5月19日となっています。
  • “Holmes as heritage” の章の刊行年は、本人サイトでは2019年、Google Scholar では2018年です。
  • 単著の頁数は、出版社が216頁、UEA の研究者データベースが191頁としています。
  • “The Nineteenth Century” は、UEA のデータベースでは The Routledge Handbook of Literary Geographies(2024年9月)所収と記載されています。

出典

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