前編では、クラブ文化史家セス・アレクサンダー・テヴォズ(Seth Alexander Thévoz)氏へのインタビュー(ポッドキャスト「I Hear of Sherlock Everywhere」第339回)から、ディオゲネス・クラブの実在モデルをめぐる推理をご紹介しました。後編では、ワトスン自身が所属していたクラブの謎と、これまでの映像作品におけるディオゲネス・クラブの描かれ方について書いていきます。
ワトスンのクラブは?
Sherlock Holmes Journal 2019年冬号に発表された論考では、ワトスン自身の所属クラブが取り上げられています。手がかりは正典中にごくわずかで、「踊る人形」でワトスンが指にチョークの粉をつけて帰宅し、サーストンとビリヤードをしていたことが分かる場面と、「バスカヴィル家の犬」でワトスンが一日中クラブで過ごしたという記述くらいしかありません。
こちらがそのシーンとなります。まずは「踊る人形より」
「だから今だって、君の左手のひとさし指とおや指のあいだの凹みをよく見れば、君が金鉱へ小資本を投資する気のないのは、そうむずかしくなくわかるんだよ」
「その関連が僕にはわからない」
「まアわかるまいね。だが、簡単にその関連が説明できるんだよ。第一に、君はゆうべクラブから帰ってきたとき、ひとさし指とおや指のあいだにチョークをつけていた。第二に、チョークは、君が撞球をするときキューにつけるのがついたのだ。第三に、君はサーストン君以外の者とは撞球をしない。」
そして「バスカヴィル家の犬」はこちら。
あらゆる証拠の小さい部分を考察し、いくつもの仮定をつくってその比重をあらため、どの点が重要で何が取るにたらぬかを決定するために、精神を集中してふかい黙想にふけるときには、ホームズにとって孤独の籠居がなによりも必要なのだということをよく知っているから、私はその日は終日クラブですごして、晩までベーカー街へは帰らなかった。再び私が居間に戻ったのは九時にちかかった。
諸説の検証
テヴォズ氏はまず、レスリー・S・クリンガーが指摘した経路の不自然さに注目します。ホームズ兄弟がベイカー街からペル・メルへ向かう際、本来なら南西に一直線で行けるところを、南へ、西へ、また南へ、東へと迂回する不可解なルートを取っているというのです。テヴォズ氏はこれを「土地勘のない人間が、知っているランドマークを頼りに移動する時のパターン」と解釈し、ワトスンがペル・メル周辺の地理に不慣れだったことの傍証と見ています。
クリンガー氏自身は、ワトスンのクラブを名門ユナイテッド・サービス・クラブ(通称「クリップルゲート」)と推定していますが、テヴォズ氏はこれに異を唱えます。この通称は「怪我をした会員が多いから」ではなく、そもそも入会資格が「陸軍少佐以上、または海軍中佐以上」と厳格で、負傷除隊した一介の軍医であるワトスンには最初から入会資格がなかったはずだ、というのです(1893年以降は下級士官も入会可能になりましたが、多くの物語の時代設定には遅すぎます)。
そこでテヴォズ氏が代案として挙げるのが、当時ハノーヴァー・スクエアにあったオリエンタル・クラブです。理由の一つは地理的な近さで、ベイカー街から徒歩15分、辻馬車で7分ほどという立地は、ポール・モール周辺のクラブよりもずっと便利だったはずだ、という指摘です。ただし本人も認める通り、この説はディオゲネス・クラブほど確固たる証拠があるわけではなく、「かなり心もとない材料(thin gruel)」に基づく推測だとしています。
映像化の中のディオゲネス・クラブ
番組後半では、これまでの映像作品におけるディオゲネス・クラブの描かれ方にも話が及びました。出来の悪い例として、マット・フリューワー主演『A Royal Scandal』やエドワード・ウッドワード主演『Hands of a Murderer』(静寂であるべきクラブなのに、やたらと反響する広間で撮影されている)が挙げられる一方、グラナダ版(ジェレミー・ブレット主演)の「ギリシャ語通訳」回は非常に出来が良いとのことでした。この回は撮影場所が長らく不明だったそうですが、番組ホストが後日「チェシャー州のケイプスソーン・ホールで撮影された」と補足していました。同じグラナダ版でも「マザリンの宝石」回はマンチェスター市庁舎の回廊を流用しており、ブレット自身の体調不良でマイクロフト(チャールズ・グレイ)に事件を委ねる展開になった回でもあります。
もっとも高く評価されていたのは、1970年のビリー・ワイルダー監督作品『シャーロック・ホームズの冒険』でした。外観はサマセット・ハウス東棟を使用しつつ、内部は3つのセットで構成されており、いずれも徹底した時代考証がなされていたそうです。ロビーにはクラブ独自のロゴマークや、会員のサイン帳、ヴィクトリア女王の巨大な像まで作り込まれ、階段は現存しない名門デヴォンシャー・クラブの階段を正確に再現。図書室のセットは、実在のリフォーム・クラブの図書室を土台にしつつ、窓のデザインだけブードルズ・クラブのものを組み合わせるという、実在しない架空の折衷案だったとのこと。この映画こそが「ディオゲネス・クラブは実は諜報機関の隠れ蓑だった」という、後の二次創作(キム・ニューマンの作品群など)に連なる解釈の原点になった、というのも興味深い指摘でした。
クラブという生き物
番組の終盤、テヴォズ氏はクラブという制度そのものについても語っていました。現在は「新規クラブ設立ブーム」の只中にあるものの、これは会員が互いの持ち分として運営する伝統的な相互扶助型のクラブとは異なり、営利目的の運営会社が会員から利用料を取る「営利運営クラブ(proprietary club)」が主流になっている、という違いも指摘されていました。19世紀当時、クラブが次々と生まれた背景にある「孤独」への処方箋としての機能は、地中海沿岸のカフェ文化や、日本を含む世界各地の類似した集いの場とも通じるものがある、という締めくくりも印象的でした。
私も実は一度だけ英国のクラブ文化に触れる機会がありました。それは大学院のクラスメイトに招待してもらったときのことでした。彼は英国陸軍の軍医で、アフガニスタンにも行ったことがあるというまさにワトソン博士のような経歴の持ち主でした。(彼と最初に会ったときに「アフガニスタンに行ってましたね」と言えなかったのが私の一生の失敗です)彼は芸術家一家に生まれたとのことで、音楽家や俳優が多く所属しているクラブの会員ということで、クラブでの夕食に誘ってくれました。特に堅苦しいこともなく、読書ルームやビリヤード台、そしてレストランなどがあって、交流の場としては最適な作りだったと思います。ゲストとしてメンバーの方に連れて行ってもらうのは簡単ですが、メンバーになるのはかなり難しそうと言う印象でした。このあたりは、イギリスでは無くアメリカではありますが、BSIの伝統にも影響しているところだと思います。
閉鎖性への批判もあると思いますが、これはこれとして伝統の一部であるということなのだと思います。
前編では、ディオゲネス・クラブの実在モデルをめぐる推理を詳しく書いています。→ クラブランドの世界(前編)――ディオゲネス・クラブの正体をめぐって
出典:
- I Hear of Sherlock Everywhere, Episode 339: Clubland(2026年7月30日、ホスト:Scott Monty, Bert Wolder、ゲスト:Dr. Seth Alexander Thévoz)
- Seth Alexander Thévoz, “The Mystery of Doctor Watson’s Club”(初出:Sherlock Holmes Journal, Winter 2019; Clubland Substack再掲)

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