2026年8月1日:「本物のシャーロック・ホームズ」を追う新刊 ― 『Sleuth-Hound』のこと

シャーロッキアン日記

今朝、いつものようにGoogleアラートを眺めていたら、ひとつ気になる新刊情報が引っかかりました。Publishers Weekly誌が紹介していたのは、Lindsey Fitzharrisという作家の新刊『Sleuth-Hound: The Case of the Real Sherlock Holmes』です。

Sleuth-Hound: The Case of the Real Sherlock Holmes by Lindsey Fitzharris
A surgeon who inspired fiction’s most famous detective made significant contributions to medicine and forensics that hav...

 

Fitzharrisは、ヴィクトリア朝の外科医リスターを描いた『The Butchering Art』などで知られるノンフィクション作家で、医学史・犯罪史を得意分野にしている人です。リスターについては、昨年参加したロンドン・シャーロック・ホームズ協会のポーツマスイベントの夕食会後にリスターを題材とした講演会があったのを覚えています。

今回の主役は、エディンバラの外科医ジョゼフ・ベル。コナン・ドイル自身が「ホームズのモデル」として名前を挙げた、あの人物です。最新号の『ミスター・パートナー』の特集でも、ベルと、後述のリトルジョンについて詳しく触れられていました。

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出版社(Farrar, Straus and Giroux)とPublishers Weeklyの情報、それに著者本人の公式サイトを見比べて確認したところ、刊行日は2026年10月20日、ハードカバー320ページ、ISBN978-0374609498とのことでした。イギリスではPenguin/Waterstonesなどからも刊行される予定のようです。

 

ベルが実際に関わった事件

ジョゼフ・ベルが「ただの観察上手な医師」で終わらなかったのは、実際に警察の捜査に協力した記録が残っているからです。Wikipediaや複数の記事をあたって確認できた範囲では、主に次の二件が確かな事件として挙げられていました。

ひとつは1878年の「エリザベス・シャントレル殺害事件」。夫のユージン・シャントレルが、生命保険をかける目的で妻に毒を盛ったとされる事件です。夫は「ガス漏れが原因だ」と主張していましたが、法医学者のヘンリー・ダンカン・リトルジョンがベルに協力を求め、二人で枕やナイトガウンに残った吐瀉物を分析してアヘンを検出、夫が最近アヘンを30回分購入していたことも突き止めました。これが決め手となり、シャントレルは有罪、絞首刑になっています。

もうひとつは1893年の「アードラモント・ミステリー」。裕福な青年セシル・ハンブローが狩猟中に不審死を遂げた事件で、ベルとリトルジョンは検死と創傷の分析を担当し、ベルは検察側証人として法廷にも立ちました。この事件は今でもイギリスの犯罪史ものでよく取り上げられる有名な裁判です。

なお、ベルとリトルジョンが「筆跡鑑定でスコットランドヤードのジャック・ザ・リッパー捜査に協力した」という記述も見かけましたが、こちらは典拠がやや心もとなく、リッパー事件につきものの「後年の伝説化」が混ざっている可能性を否定できません。この点は確定情報としてではなく、あくまで「そう言われている」という留保つきで書いておきます。ホームズほどではありませんが、ジャック・ザ・リッパーも非常に興味を持って追っているので、この点はいずれ詳しく調べてみたいと思います。(『ミスター・パートナー』でも一次資料がないとのことなので、かなり難しい調査にはなりそうですが。)

 

リトルジョンについて

ヘンリー・ダンカン・リトルジョン(1826-1914)は、1854年からエディンバラ市の警察医(police surgeon)を務めた人物です。単発の協力者ではなく、46年にわたってエディンバラ初の公衆衛生医務官(Medical Officer of Health)も兼任し、都市の衛生環境改善に大きな功績を残しました。1897年にはエディンバラ大学の法医学講座の教授にも就任しています。コナン・ドイルは「ホームズのモデルは主にベルだが、リトルジョンも影響を与えた一人」と述べており、シャントレル事件・アードラモント事件のいずれもベルと組んで捜査に当たった、いわば「もう一人の実在のホームズ」候補でもあります。

 

「Dr. Watson」という名の弾道学者について

さて、上記で触れた「先駆的な弾道学の専門家 Dr. Watson」についてです。これはFitzharrisの著者サイトに載っている本書のあらすじに出てくる記述で、ベルがリトルジョンとともに、この人物と密かに協力していたという内容でした。

正直なところを書きますと、この「Dr. Watson」という弾道学者について、出版社・著者サイト以外の独立した記録を見つけることができませんでした。19世紀の法医学史・弾道学史に関する資料もいくつか探しましたが、該当する人物には行き着いていません。つまり現時点でこの人物像は、Fitzharrisの著作(まだ発売前)の紹介文からしか確認できていない、ということになります。実在した人物なのか、本の中でどのような史料的根拠が示されるのかは、発売後に本文を確認してから改めて書きたいと思います。

『ミスター・パートナー』8月号でも言及されていますが、エディンバラの外科医パトリック・ヘロン・ワトスン(1832-1907)という人物がいたそうです。ベルと同じくコナン・ドイルの教師であった外科医で、一部の記事では「ジョン・H・ワトスン医師のモデルの一人」として名前が挙がっています。ただしこちらは弾道学とは無関係の外科医で、Fitzharrisの本に出てくる「Dr. Watson」とは別人と考えるのが自然です。あくまで「ワトスンという名の実在の医師」がもう一人エディンバラにいた、という余談として書き添えておきます。

 

ベルを探偵役にしたフィクション

ベル自身を探偵役に据えた作品も、いくつか見つかりました。

もっとも有名なのは、BBCの単発ドラマから発展したテレビシリーズ『Murder Rooms: The Dark Beginnings of Sherlock Holmes』(2000-2001年、脚本デイヴィッド・パイリー)でしょう。イアン・リチャードソンがベルを演じ、若きコナン・ドイルがベルの助手として事件を追う筋立てで、Wikipediaの記述によれば、このシリーズではドイル自身が「ベルにとってのワトスン」という立ち位置で描かれているそうです。ちょうどDVDをお借りしているところなので、早めに見なければと思っていたところでした。

Amazon.co.jp: Murder Rooms - The Dark Beginnings of Sherlock Holmes: ミュージック
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パイリーは同じ設定でドイル視点の小説シリーズ(『The Patient’s Eyes』ほか)も書いています。

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小説では、ハワード・エンゲルの『Mr. Doyle & Dr. Bell』(1997年)が、ベルとドイルの関係を題材にした作品として見つかりました。また少し毛色は変わりますが、フランスのバンドデシネでは、ジョアン・スファールによる『Les dossiers du Professeur Bell(ベル教授の事件簿)』というシリーズがあり、こちらはベルを主人公にした超常現象ものの冒険譚とのことです。

こうして並べてみると、ベルという人物は「ホームズの元ネタ」という立ち位置そのものが繰り返し再創作の対象になっていることがわかります。Fitzharrisの新刊も、この系譜の中にノンフィクションとして加わる一冊、という見方ができそうです。

 

まとめ

というわけで、当初「名前の一致が面白い」程度に思っていた話でしたが、調べていくとベル自身の捜査歴やリトルジョンの経歴、ベルを主人公にした過去のフィクション群まで、思いのほか裾野の広い話になりました。一方で「Dr. Watsonという弾道学者」については裏取りが本の発売待ちという状態です。ここは早合点せず、本が出たら中身を確認してから書き直したいと思います。

10月発売の本書も発売されたら読むつもりです。ベル博士の観察術がどこまで具体的に語られるのか、そしてこの「弾道学の専門家ワトスン」がどう扱われるのか、楽しみに待ちたいと思います。

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