病棟の朝の回診で、身元不明の意識不明患者に遭遇したら――。そんな臨床の一場面から始まる、医学と推理小説を結びつけたユニークな論考をご紹介します。今回取り上げるのは、スリランカの臨床医Harindra Karunathilake氏による “A Ward round with Sherlock Holmes”(『Journal of the Ruhuna Clinical Society』第24巻1号、DOI: 10.4038/jrcs.v24i1.61)です。
いつもの通り、論文サイトAcademiaからの自動キーワード検索の配信メールから知りました。
Karunathilake H. A Ward round with Sherlock Holmes. Journal of the Ruhuna Clinical Society 2023 (Vol. 24, No. 1). DOI: 10.4038/jrcs.v24i1.61
身元不明の患者から始まった思考実験
論文の冒頭は、著者自身の臨床経験から始まります。警察によって前夜に搬送された、身元も家族も分からない意識不明の患者。その身元をどう特定するかという議論の中で、著者はテレビドラマ『Unforgotten』(身元不明の遺骨から人物を特定していく作品)を引き合いに出します。
著者は日頃から、診断の場面を映画やドラマ、探偵小説になぞらえる癖があり、それが学生たちには面白がられ、指導医たちには呆れられているのだそうです。
診断医と探偵は同じ思考プロセスをたどる
論文の核心は、医学的診断が本質的に探偵の推理と同じ知的作業であるという主張です。著者は、ペリー・メイスンやミス・マープル、エルキュール・ポワロなど数々の名探偵の名を挙げつつ、数多くの名探偵の中でも、とりわけホームズを観察力と推理力の象徴として位置づけています。
一方で著者は、高度な検査技術への過度な依存や、診断アルゴリズムへの盲従が、診断推理の知的な面白さを損なっていると指摘します。「あらゆる診断の答えはWeb上にある」と考える『安楽椅子専門医』の出現を、現代医療への脅威とすら表現しているのが印象的です。
ジョセフ・ベルとウィリアム・オスラー 〜観察の系譜
ホームズのモデルとされるジョセフ・ベル医師(コナン・ドイルの恩師)のエピソードにも触れられています。ベルは患者が言葉を発する前から、その症状や経歴を言い当てたと伝えられる人物です。また、同時代のウィリアム・オスラー医師も観察を重視し、ヴォルテールの小説『ザディグ』の主人公が些細な手がかりから推論を導く「ザディグの方法」を教育に取り入れていたことが紹介されています。
正典からの引用と診断プロセスの対応
論文では、医学的診断における推理の4段階(事実の収集=問診と診察、事実の整理、鑑別診断の形成、結論への到達)を、ホームズの言葉と対応させています。
『四つの署名』:理想の探偵に必要な3要素として「観察・推理・知識」を挙げる場面
『まだらのひも』:「不十分なデータから推理することがいかに危険か」という反省の言葉
『緋色の研究』:「証拠が揃う前に理論を立てるのは大きな誤りだ」という有名な一節
『ボヘミアの醜聞』:「理論を事実に合わせるのではなく、事実を理論に合わせてしまう」という警句
『緑柱石の宝冠』:「不可能を除外した後に残るものこそ真実である」という定番の引用
さらに興味深いのは、シャーロック・ホームズ全60編の物語中に、68の疾患、32の医学用語、38人の医師、22種の薬剤、12の医学専門分野、6つの病院、さらには3つの医学雑誌と2つの医学校への言及があるという定量的な指摘です(出典はJames R. “A medical perspective on the adventures of Sherlock Holmes.” Journal of Medical Ethics: Medical Humanities 2001;27:76–81.)。
ホームズ作品は医学生にとって決して縁遠い題材ではない、というわけです。
過信への戒めも忘れずに
著者は最後に、患者は複雑な生身の人間であり、ホームズ的推理をそのまま診断のパラダイムとして使うことはできないと釘を刺しています。それでも、犯罪捜査と医学的診断推理の間に類似性があることは否定できず、行き詰まった診断の前で「観察」という原点に立ち返ることの価値を説いて論考は締めくくられます。
ホームズのモデルとされたベル教授、作者コナン・ドイルそして相棒のワトソン博士とみな医師であるという共通点がありますが、これだけ見ても医学(特に臨床診断)と探偵術とは親和性があることがうかがえます。それが、論文としてまとめられているという点がこの論文の興味深いところだと思います。
書籍でもこのようなテーマのものはあったと思いますので、いずれ紹介していきたいと思います。
*アイキャッチ画像は、本文の内容を元にAIで作成した画像となります。

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