「シャーロック・ホームズはパイプを吸う」。この文は正しいでしょうか。多くの人は迷わず「正しい」と答えるはずです。では「シャーロック・ホームズはチュチュを着ている」はどうでしょう。こちらは「間違い」です。ところが、ホームズが実在しない以上、どちらの文も正しくありえない、と考える哲学者は少なくありません。
2026年10月9日の日記では、分析哲学者たちがホームズを固有名論の例として使ってきた歴史を紹介し、その中でHeidi Savage(旧名Tiedke)の議論にも触れました。今回取り上げるのは、同じSavageが2020年に発表したもう一本の論文 “The Truth and Nothing but the Truth: Non-Literalism and The Habits of Sherlock Holmes”(Southwest Philosophy Review 36巻2号)です。前回の記事が「哲学者はホームズをどう使ったか」を扱ったのに対し、この論文はもう一歩、私たちシャーロッキアンの側に踏み込んできます。物語に書かれていないホームズの「本当の姿」を議論するとき、人は何をしているのか、という問いです。
「ホームズはパイプを吸う」は真か
Savageは、次の四つの文から話を始めます。
- (1) シャーロック・ホームズは煙草を吸う
- (2) シャーロック・ホームズはチュチュを着ている
- (3) バートランド・ラッセルは煙草を吸う
- (4) バートランド・ラッセルはチュチュを着ている
直観的な答えは、(1)と(3)が真、(2)と(4)が偽です。Savageによれば、ホームズについての文もラッセルについての文も、私たちは同じように自然に真偽を判断できます。文の形も変わりません。それなら四つの文は同じ仕方で分析されるべきだ、とSavageは考えます。
ところが、「名前の指す対象が、述語の表す性質を持つとき、文は真」と分析し、さらにホームズという名には指示対象がないと考えると、問題が生じます。この組合せでは、(1)も(2)も偽になる、あるいは真偽を持たないことになります。私たちの直観と理論が食い違うこの状況を、Savageは「虚構的言説のパズル」として取り上げます。
Savageが本論文で対比するのは、二つの方向です。直観のほうを「字義どおりの判定ではない」として説明し直す非字義説と、直観をそのまま受け入れて標準的な分析のほうを改める字義説です。Savageは後者の立場を擁護します。ただし、その根拠の一つは、著者自身の授業での観察にとどまります。この点は後で改めて取り上げます。
「物語によれば」で片づく会話
非字義説の代表は、デイヴィッド・ルイスの論文「フィクションにおける真理」(1978年)に由来する「物語演算子」の考え方です。(1)が正しく聞こえるのは、話し手が実際には「物語によれば、ホームズは煙草を吸う」と言っているからだ、と説明します。
注意したいのは、ルイスの「物語によれば」が、本文に明記された事柄だけを指すわけではないことです。ルイス自身、ホームズがウォータールー駅よりパディントン駅に近いところに住んでいた、という例を挙げています。物語に明記されていなくても、ベイカー街という作中の住所と、ロンドンの地理についての背景知識を組み合わせれば、「物語において真」と判断できるのです。行間を常識と地理で埋める作業は、この説明の内側に収まります。
Savageもまず、この説明がうまく働く会話を示します。アダムが「ホームズはコカインを常用する名探偵だった」と言い、サムが「ホームズは実在しないのだから、そんなことはありえない」と返す。アダムが「でも物語によればそうだ」と言い直すと、サムは「それならもちろん正しい」と認める。この会話は、物語演算子説の予測どおりに進みます。
ワトスンの記録を疑う
ところが、シャーロッキアンの議論は、たいてい「物語によれば」では終わりません。ゲームの出発点とされるロナルド・ノックスの “Studies in the Literature of Sherlock Holmes”(1911年講演、1912年発表)からして、そうでした。ノックスは架空の学者たちに、「最後の事件」はワトスンの偽装だとする説や、逆に帰還後の物語こそ捏造だとする説を語らせます。そのうえで論考の語り手は、帰還後の物語への批判に賛同しつつ、別人のワトスンが書いたとする説は退けます。代わりに示すのが、すべてワトスンの筆だが、本物の冒険は実際に起きた出来事で、偽物の冒険は彼自身の創作だ、という再構成です。妻を失って酒に戻り、生活に困ったワトスンが、かつての事件の不器用な模倣をつぎはぎして食いつないだのだ、という筋書きまで添えられています。もちろん、全体は聖書の高等批評を風刺した戯文です。
記録者を疑う足がかりは、正典そのものにも用意されています。『白面の兵士』で語り手を務めるホームズは、冒頭で、ワトスンの書くものは浅薄で、厳正な事実の記述にとどまらず大衆の興味におもねると、しばしば攻撃してきたと明かします。ところが自分で筆を執ってみると、できるだけ読者に興味を与えるように書かなければならないことに、いまさら気づいたと告白せざるをえません。さらに、ワトスンは謙譲な性格から、ホームズの実績を誇張して評価するあまり、自分の美点にはあまり思い至らないのだとも述べています。物語の半ばでは、手がかりの匂いに気づいた場面で筆を止め、「ワトスンがいつもフィナーレの俗受けで成功するのは、鎖の中のこういう一環を伏せておくからなのだ」と書いています。ここから「ワトスンが本当の探偵だった」と結論することはできません。それでも、記録には選択と誇張、そして意図的な省略がつきものだという見方は、正典の内側に根拠を持っています。
Savageの二つ目の会話は、本記事では、こうした営みをさらに一歩進めた形として読んでおきます。アダムが同じく「ホームズはコカインを常用する名探偵だった」と言うと、今度のサムは「麻薬中毒の名探偵などありえない」と反論します。アダムが「物語ではそうなっている」と言っても、サムは引き下がりません。「物語にはそう書いてあるかもしれないが、薬物を使いながらあれほどの名探偵でいられたとは思えない。ひょっとすると、本当の名探偵はワトスンで、ホームズは手柄を横取りしていただけではないか」と疑い始めるのです。
この会話では、「物語によれば」と言い直しても議論は終わりません。サムが問題にしているのは、物語に何が書かれているかではなく、物語に反してでも「ホームズについて本当はどうだったか」だからです。Savageはこれを、ファンフィクションに属する言説として扱います。そして、物語演算子説ではこの種の会話を説明できない、と論じます。ちなみに、ワトスンこそが本物の名探偵で、ホームズは彼が雇った売れない役者だった、という設定を正面から映画にしたのが、マイケル・ケインとベン・キングズレー主演のWithout a Clue(1988年)です。
三つの営み:補完、再解釈、改変
ここで、本記事なりの整理をしておきます。ホームズについて物語の外で語る営みには、少なくとも三つの種類があります。
- 補完:書かれていない部分を、正典や当時の事情から推定する(例:ホームズの住まいと駅の距離)
- 記録の再解釈:ワトスンの記述に省略、誤認、隠蔽があると考える(例:ノックスの再構成)
- 設定の改変:原作とは異なる人物関係や出来事を創作する(例:Without a Clue)
もっとも、三つの境界ははっきりしたものではありません。ノックスの「一部の冒険はワトスンの創作」という再構成は、記録の再解釈でありながら、物語の中身を大きく書き換える点で設定の改変に近づきます。『白面の兵士』のホームズの言葉は、正典の内側にある自己言及であり、読者が外から記録を疑う再解釈とは立ち位置が違います。ただし、記録が手がかりを伏せることがあるという彼の証言は、外からの再解釈に足場を与えるものでもあります。三つは重なりうる目安であって、個々の読みを無理にどれかへ振り分ける必要はありません。
補完は、ルイスの物語演算子説でも説明できます。Savageは会話2をまとめて「ファンフィクション」と呼びますが、そう呼んでしまうと、二つ目の「記録の再解釈」、つまりゲームに特有の史料批判的な側面が見えにくくなります。本当に考えるべきなのは、この二つ目の営みを、どの理論がどこまで説明できるかです。
「ふり」の理論は、私たちのゲームを説明できるか
ここで言葉を整理しておきます。シャーロッキアンが「ゲーム」と呼ぶのは、ホームズとワトスンを実在の人物とみなし、正典を記録として読む研究の実践のことです。一方、哲学で「ふり(make-believe)」と呼ばれるのは、虚構についての発話を説明するための理論的な枠組みです。名前は似ていますが、前者は説明される側、後者は説明する側にあたります。
Savage自身も、この枠組みを有力な反対説として取り上げています。論文の反論検討の節によれば、ファンフィクションは、原作を小道具として使う一種のふりの遊びとして説明できるかもしれません。遊びの中で何が成り立つかは原作によって制約されますが、原作のすべてに従う必要はなく、ある程度の自由が許されます。Savageはこの説明の出典としてEvansやWaltonの議論を挙げ、物語演算子説との混合説として紹介しています。
Savageは、この混合説では説明しきれない議論があると指摘します。作品ごとに描かれ方の異なるジェームズ・ボンドについて、読者二人が「どの描写が本当のボンドを捉えているか」と争う場合です。Savageによれば、混合説を前提にすると、食い違う描写をすべて同じ人物のものとして扱うことはふりの遊びとして当然許されるので、この争いに実質的な中身は残らないことになります。しかし読者が知りたいのはまさにその点だ、というのがSavageの反論です。
一方で、非字義説の側にも、この種の営みを取り込もうとする議論があります。ルイスは1983年、論文集に「フィクションにおける真理」を再録する際に付した後記で、Waltonの議論に説得されたとして、物語の受け渡しを語り手と聞き手による協同のふりの遊びとして捉え直しました。語り手は歴史を伝えるふりをし、聞き手はそこから学ぶふりをする。聞き手は本物の歴史家と同じように、複数の情報源を突き合わせるふりをする、とルイスは述べます。そのうえで、ドイルとクリスティを合わせた世界では、ホームズのほうがポワロより早くABC殺人事件を解決できたかもしれない、という例まで挙げています。複数の記録を照合するという、私たちにとってなじみ深い作業は、字義どおりの真を持ち出さなくても、ふりの枠組みの内側で説明できるわけです。
ただし、ルイスが「物語によれば」という分析そのものを捨てたわけではありません。何が物語において真になるかを分析する枠組みは保ったまま、それを語り手と聞き手の協同のふりという、より広い説明の中に位置づけ直したのです。
とはいえ、複数の情報源を組み合わせることと、その情報源の信頼性を疑うことは別の作業です。ノックスの論考の語り手は、一部の冒険をワトスン自身の創作とみなす再構成を示しました。このような読みも、ふりの枠組みの中で表現できるのでしょうか。
手がかりになるのは、同じ後記のうち、歌い手が自慢の嘘を語る人物を演じる歌を検討した箇所です。外側の物語では人物が嘘をつき、その内側に、嘘によって語られた別の物語がある。「ワトスンが冒険を創作した」という読みも、同様の入れ子として表現できる可能性があります。ただし、作品自体が語り手の嘘を示している場合と、読者が語り手を疑う解釈を後から提案する場合は同じではありません。またルイス自身も、入れ子になったふりが単一のふりとどう違うのかという分析上の問題を、未解決として残しています。なお、この後記とノックスを結びつけるのは、ルイス自身の議論ではなく、本記事の提案です。
ゲームの参加者が真剣に根拠を挙げて争うことは、どの理論も説明しなければならない事実です。しかし、その事実だけでは、そこで述べられていることが文字どおり真なのか、共有されたふりの枠内で真なのかは決まりません。
ホームズは探偵以外でありえたか
Savageの三つ目の会話は、様相、つまり「ありえたかどうか」の問題です。「ホームズは探偵以外の何かになりえただろうか」と問われたとき、答え方は二つに分かれます。
- 作中の一人の人間として、別の職業を選ぶ人生がありえたか
- 探偵であることを取り除いても、そのキャラクターはホームズと言えるか
前者として読めば、答えは「ありえた」です。作中のホームズも普通の人間であり、職業は人の本質ではないからです。後者として読むと、「探偵でないホームズはホームズではない」という直観が出てきます。Savageは後者の読みを擁護し、作者が物語上の役割を決めるために与えた性質(探偵であること、並外れて頭が切れること)が、そのキャラクターの本質を形づくると論じます。黒い靴下を履いていることは、作者が書いたとしても本質にはあたりません。ただしSavage自身、この部分は今後の展開を待つ試案だと断っています。
この区別は、映像化をめぐる議論にも当てはまります。ある翻案のホームズを「ホームズらしくない」と評価することは、「あれは別のキャラクターだ」という同一性の判断と同じではありません。人物描写の的確さについての評価と、キャラクターの同一性についての判断を分けておくと、争点が明確になります。
この論文の限界
字義説を支える根拠として、Savageは「中立文脈テスト」を提案します。文を会話に埋め込まず、黒板に書いて真偽を問えば、語用論的な効果(言外の意味の補い)は働かず、文字どおりの内容だけが評価される、という考え方です。Savageによれば、教室で(1)と(2)を示すと、ほぼ全員が真、偽と答えるといいます。
Savage自身、文を提示するだけで本当に言外の意味の補いを排除できるのか、という疑問が出ることは認めています。そこで持ち出すのが、医師の「患者は死なない」という発言です。ふだんの会話では「当面は死なない」という意味で受け取られ、患者がいずれ死ぬからといって誰も医師を嘘つきとは呼びません。しかし中立文脈に置けば、この文は文字どおりの意味で偽と判定されるはずだ、とSavageは予測します。ただし、この予測を確かめた結果は示されていません。また、(1)と(2)についての判定も、著者の授業での経験にもとづく観察であり、統制された実験ではありません。
さらに、本記事からは別の問題も指摘しておきます。黒板に名前だけを書いても、読み手は「ホームズ」という名から作品を思い浮かべます。「真」と答える人が多いという事実と、その判断が文脈の補いを介さず字義だけを評価しているという主張とは、別のものです。
おわりに
Savageの論文は、シャーロッキアンにとって、自分たちの営みを外から眺める鏡になります。ホームズについて「本当はどうだったか」を争うとき、私たちは何について語っているのか。ゲームに参加する者が真剣に根拠を争うことは、Savageの字義説にとっても、ふりの理論にとっても、説明すべき事実です。どちらがそれをよりよく説明するかについて、本記事では判定を控えます。
ホームズを実在とみなす読み方そのものの成り立ちについては、2026年7月21日の日記でKate M. Donleyの論考を紹介しています。ホームズの名と性質の集合をめぐる議論は2026年4月1日の日記、分析哲学とホームズの関係の全体像は2026年10月9日の日記をあわせてご覧ください。
注
- 本記事は、著者が公開している2020年5月版の原稿にもとづいています。掲載版の本文との異同は確認していません。なお、それ以前の2019年版の原稿では、中立文脈テストの対照例が「私は死なない」という文になっており、原稿の段階でも記述に変更があります。
- 話し手の8割以上が(1)のような文を真と判定するというデータは、Savageが引用するPiccinini and Scott(2010)によるもので、元の例文はサンタクロースとミッキーマウスです。Savageはこれをホームズの文に一般化しています。
- 会話中の「コカインを常用する」の原語は “mainlined”(静脈注射する)です。『四つの署名』冒頭でホームズは注射器を使いますが、正典は静脈注射とまでは書いていません。
- パディントン駅の例は、ルイスの1978年の論文のp.38に挙げられ、pp.41–42で説明されています。ルイスは、この距離関係が物語には明記されていないと断ったうえで、作中に駅の位置を変える理由がない以上、現実の地理を物語にも引き継げると論じています。
- ルイスは1978年の論文で、ワトスンの戦傷の位置(肩か脚か)の矛盾を取り上げ、矛盾を最小限修正した複数の版すべてに共通して成り立つことを真とする方法を示しました。1983年の後記では、いずれかの版で成り立つことを真とする方法を選好するようになります。ただし、二つの方法を「真」の二つの意味として併用する余地も認めています。
- Savageの原稿の参考文献には、本文と出版年が一致しない箇所があります(Deutsch、Elgin、Bertoletなど)。
参考文献
- Savage, Heidi. “The Truth and Nothing but the Truth: Non-Literalism and The Habits of Sherlock Holmes.” Southwest Philosophy Review 36, no. 2 (2020): 63–85. https://doi.org/10.5840/swphilreview202036239. 本記事では2020年5月版の公開原稿を参照。
- Lewis, David. “Truth in Fiction.” American Philosophical Quarterly 15, no. 1 (1978): 37–46. Philosophical Papers, Volume I (Oxford University Press, 1983), pp. 261–275に再録。後記は同書pp. 276–280。
- Knox, Ronald A. “Studies in the Literature of Sherlock Holmes.” 1911年講演、The Blue Book(1912年7月)初出。のちにEssays in Satire(1928年)所収。本記事ではArthur Conan Doyle Encyclopediaの転記本文を参照。
- Donley, Kate M. “Early Sherlockian Scholarship: Non/fiction at Play.” Transformative Works and Cultures, no. 23 (2017). http://dx.doi.org/10.3983/twc.2017.0837
- コナン・ドイル「白面の兵士」延原謙訳、『シャーロック・ホームズの事件簿』新潮文庫所収。本記事の引用は新潮文庫CD-ROM版による。

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