2026年10月27日:宮殿の外のシャーロック・ホームズ:風刺小説、警察官、そして怪盗(後編)

シャーロッキアン日記

前編では、オスマン帝国のホームズが、まずスルタン、アブデュルハミト2世の宮殿の中で訳され、1908年の第二次立憲政のあとでようやく一般の読者に届いたところまでを追いました。1909年4月にスルタンが退位させられると、宮殿の外に出たホームズは、思いもよらない姿で次々と現れるようになります。後編では、その後のホームズを、スルタンを批判する風刺小説、警察官になったホームズ、トルコの怪盗に出し抜かれるホームズの順に見ていき、最後に、ふたたびスルタンとホームズを結びつけた現代の小説に触れます。

スルタンを裁くホームズ

前編で名前を出したのが、アルメニア人作家イェルヴァント・オディアン(1869〜1926年)です。コンスタンティノープルに生まれ、晩年はカイロで亡くなっています。スルタンの退位から2年後の1911年、オディアンはコンスタンティノープルで『アブデュルハミトとシャーロック・ホームズ』を出しています。英語版ウィキペディアの書誌では、題はアルメニア文字で記されています。

The Paris Review に載ったアイシェギュル・サヴァシュの記事によると、物語は、スルタンの密偵3人がボスポラス海峡沿いの空き屋敷で殺される事件から始まります。オスマン帝国の警察は解決できず、スルタンは英国の名探偵を呼び寄せます。サヴァシュは、オディアンがスルタンをはっきり批判していたこと、この小説が2014年にアラビア文字から現代のラテン文字に移されて刊行されたことも伝えています。

タヒル=ギュルチャールの論文は、ユイェパザルジュの研究に拠りながら、筋をもう少し紹介しています。この小説に出てくるのは、ドイルがホームズのモデルにしたという「本物の」ホームズ、つまりスコットランドに妻と4人の子どもと暮らす、スコットランド・ヤードの退職刑事マクレーンです。オディアンはこのマクレーンを政治批判の道具として使っていて、作品は探偵小説というより、アブデュルハミト2世の政治を批判する書物だったといいます。分量は832ページにのぼり、1913年には続編『サリハ夫人』が出ました。

前編で見たように、スルタンは宮殿の中でドイル作品の翻訳を読み聞かせてもらっていました。そのスルタンが退位したとたん、ホームズ(の「モデル」)はスルタンを批判する物語の主人公になったわけです。また前編の2節で触れたとおり、ユイェパザルジュは、スルタンがドイルを招いたという話の出どころをこの小説だとしています。宮殿の外で書かれた風刺の作り話が、のちに事実として語られるようになった、というのが彼の見方です。

警察官になったホームズ

1912年は、トルコのホームズにとって大きな節目の年でした。『シャーロック・ホームズの冒険』の翻訳が出る一方で、最初の「偽翻訳」のシリーズも始まります。偽翻訳とは、翻訳のふりをして売られながら、原作がたどれない作品のことです。タヒル=ギュルチャールによれば、このとき原作のうちトルコ語に訳されていたのは長編1作と短編15作だけでした。

最初の偽翻訳シリーズの題は、論文の英訳で “The Secret Files of the King of Policemen Sherlock Holmes”、つまり「警察官の王シャーロック・ホームズの秘密ファイル」です。100〜150ページの本が16冊出ました。このシリーズで、ホームズは初めて警察組織の一員として描かれ、その設定は後の偽翻訳にも受け継がれます。ワトスンはほとんど登場せず、代わりにハリー・タクソンという助手がつきます。タクソンは1907年にドイツで始まった偽翻訳シリーズ “Detektiv Sherlock Holmes und seine weltberühmten Abenteuer” に最初に現れた人物で、トルコのシリーズはこのドイツのシリーズから何らかの影響を受けたと考えられています。ただしタヒル=ギュルチャールは、トルコの訳者たちは主にフランス語から訳していたこと、本の長さがドイツ版(32ページ)と違うことから、直接の翻訳ではなかっただろうとしています。

その後も、ホームズは「警察の人」であり続けました。論文に挙がっている例を年代順に並べると、次のようになります。

  • 1920年:「名作物語」シリーズの14番として出た7ページの短編『闇の王』(訳者はヴェダト・ウルフィと表示)。表紙では「名高い警部シャーロック・ホームズの並外れた冒険から、手に汗握る一編」と紹介されています。事務所はブリッジ街にあり、助手はハリー・タクソンです。
  • 1925〜27年:”Meşhur Polis Hafiyesi Sherlock Holmes”(名高い警部シャーロック・ホームズ)。助手の名はハリー・ワトスンになりますが、原作のワトスンとは別人の見習いで、ホームズを「師匠」と呼びます。
  • 1944〜45年:”Meşhur İngiliz Polis Hafiyesi Şerlok Holmes Serisi”(名高い英国警部シャーロック・ホームズ・シリーズ)。16ページの週刊冊子で、83冊。大半が偽翻訳でした。
  • 1955年:”Şerlok Holmes Harikulade Maceralar”(シャーロック・ホームズの驚くべき冒険)。85話を超え、このかたちの最後のシリーズとされます。

1955年のシリーズでも、ホームズはまだ警部と呼ばれていました。タヒル=ギュルチャールは、読者には警察の外で働く私立探偵というものが想像しにくかったのだろうと述べています。トルコでは、40年あまりにわたって、ホームズは警察の人として売られ続けたことになります。

ギリシャ編で紹介した1913年のアテネの匿名パスティーシュでも、ホームズが「警察官」と呼ばれていることが、序文を書いたアポストリディスへのインタビューで話題になっていました。警察に属さない英国の私立探偵という設定は、ギリシャでもトルコでも、そのままでは受け取られにくかったのかもしれません。これは二つの例からの私の推測で、ほかの言語圏まで調べたわけではありません。

1914年には、ホームズの性格を大きく変えてしまったシリーズもありました。『シャーロック・ホームズの愛人』という2冊だけのシリーズで、第1作のホームズは、原作のスコットランド・ヤードの刑事たちのような無能な探偵として描かれます。事件を解くのは愛人のミス・バークレーで、彼女はホームズを何度も愚か者呼ばわりします。タヒル=ギュルチャールは、この話が「瀕死の探偵」をもとにしているらしいと指摘しています。熱帯の病気が腸チフスに置き換えられていますが、鋭いもので刺して病気をうつすという手口は同じです。

怪盗に負けるホームズ

トルコの書き手は、早くから自分たちの名探偵も作っていました。ギリシャ編でも触れたとおり、ビルケント大学の修士論文(2005年)によれば、1913〜14年にはエビュッスレイヤ・サーミの探偵小説シリーズ『トルコ人のシャーロック・ホームズ、アマンヴェルメズ・アヴニ』全10作が刊行されています。題にホームズの名を借りながら、人物も推理法もホームズとは異なる独自の作品だったと、論文は結論づけています。

そして1926年には、ホームズがはっきり「負ける」シリーズが二つ現れました。

一つは、セラーミー・ミュニルの「シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンの冒険」です。週刊の冊子で7話出ました。モーリス・ルブランの作品とは関係のない話で、パリ警察を助けてルパンを追う警部ホームズは、助手のハリーに仕事の多くを任せる受け身の人物として描かれます。ルパンは毎回、最後の最後で巧みに逃げ、ホームズはルパンより劣る存在として扱われています。

もう一つは、作家ペヤミ・サファがセルヴェル・ベディの筆名で書いた「シャーロック・ホームズ対チンギョズ・レジャイ」です。チンギョズ・レジャイはルパンにならって作られた怪盗で、教養のある紳士で女性にもてて、決して人を殺しません。このシリーズでは、トルコの警察の招きでホームズとワトスンがイスタンブールにやってきて、レジャイを追います。毎回あと一歩まで追いつめながら、レジャイは最後に逃げおおせ、知恵ではホームズより上手だということになります。このシリーズはとても人気があり、ラテン文字に切り替わった後も何度も版を重ねました。1944年には出版社ギュヴェンから改めてシリーズとして出ています。

前編で見たとおり、1907年のドイルは、スルタンの宮殿に招かれたわけではありませんでした。それから20年ほどのちのトルコの読み物では、ホームズはトルコの警察に招かれてイスタンブールにやってきて、トルコの怪盗に出し抜かれて帰っていきます。

作者のいないホームズ

こうしたトルコのホームズには、作者や訳者がはっきりしないという共通点があります。タヒル=ギュルチャールによれば、作者名も訳者名も載せないシリーズがあり、同じシリーズの書き手を週によって「作者」と呼んだり「訳者」と呼んだりする例もありました。セラーミー・ミュニルは自分のことを「ナーキル(nâkil)」と称しています。もとは「運ぶ人」「話を伝える人」を意味する語で、オスマン帝国から共和国初期にかけて、翻訳者にも創作者にも使われていました。

タヒル=ギュルチャールは、この大らかさの源を、トルコの民衆本(民話の再話本)の伝統に見ています。民衆本では、同じ話を別の書き手が書き直すことが当たり前で、作者が誰かは問題にされませんでした。実際、偽翻訳のホームズと民衆本は、同じ書き手、同じ出版社、同じ読者を共有していました。ホームズの冊子の裏には民衆本の広告が載っていたそうです。ホームズの偽翻訳は1955年のシリーズを最後に姿を消し、民衆本の再話も同じころに衰えていきました。

前編の宮殿のホームズも、訳者の名前がほとんど残っていません。ユイェパザルジュが見つけた翻訳ノートの訳者は、「Corci kulları(下僕コルジ)」と名乗っていただけでした。宮殿の中でも外でも、トルコ語のホームズは、名前の分からない人々の手で運ばれてきたと言えそうです。これは私の感想で、宮殿の翻訳と民衆本の伝統とのあいだに実際のつながりがあったかどうかは、私が見た資料からは分かりません。

ふたたびスルタンのもとへ

最後に、現代の小説を一つ紹介します。1989年からトルコで仕事をしてきたジャーナリスト、アンドルー・フィンケルが、2024年2月に出した初めての小説 The Adventure of the Second Wife: The Strange Case of Sherlock Holmes and the Ottoman Sultan です。イスタンブールの雑誌 Cornucopia に載った書評によると、きっかけは、歴史家フィリップ・マンセルの『コンスタンティノープル』の一節でした。そこには、アブデュルハミト2世がコーランに耳を傾けたかと思えば、次にはシャーロック・ホームズの冒険を聞いていた、と書かれていたそうです。

小説は、ドイルが晩年に「第二の妻」という話に触れていた、という設定から始まります。もちろん、正典にそのような作品はありません。2026年3月の日本シャーロック・ホームズ・クラブ春の全国大会では、フィンケル氏がこの小説について講演しました。私もフィンケルさんと懇親会で少しお話しすることができ、著作にサインもしてもらいました。

オディアンの風刺小説から100年あまり、スルタンとホームズの組み合わせは、いまも書き手の想像を誘い続けているようです。

参考文献

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