本サイトでも度々登場するシャーロッキアン向けポッドキャスト「I Hear of Sherlock Everywhere」(スコット・モンティ氏、バート・ウォルダー氏がパーソナリティです)の第337回で、小説「The Great Game」が紹介されていました。昨日の月例会で、情報提供してくださった人がいたので、早速聞いてみることに。
ゲストは、脚本家・プロデューサーのアーヴィンド・イーサン・デイヴィッド氏。初の小説 である『The Great Game』(Thomas & Mercer刊)について語っています。
ゲスト紹介:アーヴィンド・イーサン・デイヴィッド氏
同氏はマレーシア・クアラルンプール生まれ、インド系の家庭に育ち、イングランドで教育を受けた作家・プロデューサーです。ブロードウェイのトニー賞・グラミー賞受賞ミュージカル『ジャグド・リトル・ピル』の製作を手がけたほか、テレビドラマ『Dirk Gently’s Holistic Detective Agency』『Anansi Boys』、アカデミー賞受賞映画『The Garden of Evening Mists』などに携わってきました。グラフィックノベル『Darkness Visible』(ブラム・ストーカー賞ノミネート)や、ダグラス・アダムズの『銀河ヒッチハイク・ガイド』の舞台化なども手がけています。
ダグラス・アダムズ氏とは、学生時代、演劇活動を通じてご本人と知り合い、大学で無許可上演していた『Dirk Gently』の舞台化について許可を求めたところ、アダムズ本人が観劇に訪れたというエピソードが語られており、これが作家としてのキャリアの出発点になったとのことです。
新作『The Great Game』の成り立ち
COVID-19パンデミックで舞台・映像の仕事が止まった2020年、デイヴィッド氏はAudible向けにオーディオドラマを複数執筆。その一つのアイデア、エドワード朝ロンドンを舞台にした怪盗が、仕事中に猟奇殺人に遭遇する、というごく短いプロットが、後に版元からの依頼で長編小説へと発展しました。
物語の核となるのは、E.W.ホーナング(コナン・ドイルの義弟)が生んだ怪盗ラッフルズとその相棒バニーです。作中では、ボーア戦争で命を落とすはずのラッフルズが生き延び、代わりにバニーが戦死するという設定に変更されています。相棒を失ったラッフルズが新たな「バニー」として迎えるのが、本作の語り手となる新キャラクター、バルヴィンダー・デヴ・シンです。
語り手バルヴィンダー・デヴ・シン
シンはシーク教徒のインド人青年で、法学生かつボーア戦争の従軍経験者という設定です。
デイヴィッド氏は、自身がマレーシア生まれのインド系移民でありながら、少年時代に愛読したホームズやラッフルズの世界には自分のような人物がほとんど登場せず、登場したとしても『四つの署名』のように悪役として描かれがちだったと振り返ります。そこで「もし19世紀に自分がいたら」という発想から、シンという語り手を創造したと説明しています。
作中ではシンとラッフルズがホワイトホールに呼び出され、初めてホームズとワトスンに対面する場面が朗読されました。老境に差し掛かった二人の描写、もはや若くはないが、なお鋭い眼光を失わないホームズ像が印象的な一節です。
タイトルの『The Great Game』については、当初から意図していたテーマではなく、執筆の過程で自然と浮かび上がってきたと述べています。ヴィクトリア朝の探偵小説に登場する名家・富はいずれも大英帝国の植民地経営と不可分であり、シンという語り手を得たことで、作品が自ずと帝国主義への視線を含むものになっていった、という制作過程が語られています。
インタビューを聞いて
今回のインタビューであらためて印象的だったのは、デイヴィッド氏がラッフルズ&バニーとホームズ&ワトスンという、二組の「探偵と相棒」を並べて描いている点です。ラッフルズもホームズ同様、自らの才知や美意識を映し出してくれる相手を必要とする人物として語られており、これは本ブログでも昨日取り上げたクラフチク=ジヴコ論文の「相棒の書き換え」というテーマにも通じます。ただし『The Great Game』における新しい「バニー」であるシンは、単なる崇拝者ではなく、自身の教養と主体性をもって世界を見る語り手として設計されている点が、これまでの相棒像の書き換えとは一線を画しています。
もう一つの軸は、原作の“空白”への意識的な介入です。デイヴィッド氏は、19世紀末の探偵小説群がいかに大英帝国というコンテクストの上に成り立っていたか、そしてその世界にインド系や他の非白人の登場人物がほとんど存在しない、あるいは存在しても敵役として消費されてきたかを指摘し、シンという語り手を据えることでその不在に正面から向き合おうとしています。これは単なる翻案・パスティーシュを超えて、正典そのものが前提としていた視点の限界を問い直す試みとして読むことができ、近年のシャーロッキアン・パスティーシュの中でも注目すべき方向性だと感じました。

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