書誌学(bibliography)とは何か
シャーロック・ホームズに関する文献を体系的に調べようとするとき、必ず行き当たるのが「書誌(bibliography)」という存在です。単なる文献リストに見えて、その実、優れた書誌はシャーロキアン研究の地図であり、文化的記録であり、研究者同士をつなぐ共通言語でもあります。今回は、シャーロキアン書誌の歴史を、Ronald Burt De Waalの仕事を軸に、前史から現代のデジタル書誌まで整理してみます。
「書誌」あるいは「書誌学(bibliography)」という語は、広義には「文献の記録と研究」を指します。書誌学には大きく二つの系統があります。
ひとつは分析書誌学・記述書誌学(analytical / descriptive bibliography)で、書物の物理的実体――紙・インク・製本・版次・刷数・テキスト異同――を精査する学問です。初版本の識別や版本の確認に用いられます。
もうひとつは列挙書誌学(enumerative bibliography)で、特定のテーマや著者をめぐる文献を収集・分類・注釈するものです。シャーロキアン研究においては、こちらの蓄積がとりわけ膨大になります。
De Waalの仕事は後者の系譜に属し、Green & Gibsonの仕事は前者――より正確には、分析書誌学の成果を踏まえた記述書誌――に位置します。研究上の用途が根本的に異なる二系統を意識しておくことが、書誌を使いこなす第一歩です。
De Waal以前――書誌史の前史
De Waalの最初の書誌が刊行される1974年以前にも、シャーロキアン研究の記録化への試みはありました。
Howard Haycraft(1905〜1991)の『Murder for Pleasure: The Life and Times of the Detective Story』(1941年)は、探偵小説研究の古典として、ホームズ研究を探偵小説史の中に位置づけた先駆的な仕事であり、その中には当時のホームズ研究・批評文献への案内も含まれていました。書誌専門家ではありませんが、シャーロキアナを学術的文脈で記録しようとした初期の試みとして前史に位置づけられます。
Edgar W. Smith(1894〜1960)はBSI(ベイカー・ストリート・イレギュラーズ)の第二代代表を務め、1944年に Profile by Gaslight を編纂。翌1945年には A Baker Street Inventory(BSIが所蔵・把握していたホームズ関連資料の目録)を発表し、シャーロキアナの目録化という概念を実践しました。また1946年には The Baker Street Journal を創刊し、シャーロキアン研究の発表媒体を制度的に確立した人物でもあります。
こうした前史の上に、De Waalの本格的な書誌編纂が始まります。
Ronald Burt De Waal――書誌学者としての生涯
Ronald Burt De Waal(1932〜2018)は、ユタ州ソルトレイクシティ生まれ。図書館学を学び、ニューメキシコ大学特別コレクション司書、ニューメキシコ陸軍士官学校図書館長などを経て、1966年からコロラド州立大学(フォートコリンズ)の人文学司書・展示コーディネーターとして1988年まで勤務しました。BSIのメンバーでもあった彼は、ホームズへの情熱を学術的な書誌編纂へと昇華させ、生涯をかけて三部作を完成させます。2018年7月3日、85歳で逝去。その文書資料はユタ大学マリオット図書館特別コレクションに収蔵されていると伝えられています。
書誌編纂の出発点には、一人のシャーロキアンとの出会いがありました。1966年のBSI年次晩餐会(ニューヨーク、ウェスト23丁目)で、De WaalはJohn Bennett Shaw(1913〜1994年10月)と出会います。De Waalが「シャーロック・ホームズの世界書誌を編纂するつもりです」と名乗り出たとき、Shawは内心「少し狂っている」と思いつつ「ああ、どうかやってくれ」と感じたと、後年 The Universal Sherlock Holmes の序文に回想しています。
この出会いが第一作の物理的基盤を生みました。De WaalはShawが所蔵する世界最大規模の私立シャーロキアナ・コレクションを使い、タルサとサンタフェで合計97日間(1日12時間)にわたって書誌編纂作業を行いました。第一作 The World Bibliography of Sherlock Holmes and Dr. Watson(1974)の表紙クレジットには「edited by Ron De Waal with the expert assistance of John Shaw」と明記されており、Shawの関与は公認されたものでした。
第一作:The World Bibliography of Sherlock Holmes and Dr. Watson(1974)
1887年から1972年までのホームズ関連資料を分類・注釈したリストで、De Waalの書誌的仕事の出発点となった作品です。Shawのコレクションという物理的基盤の上に成立したこの書誌は、シャーロキアン研究の記録化という営みをはじめて本格的に体系化したものとして位置づけられます。Internet Archiveにてデジタルアーカイブが公開されています。

第二作:The International Sherlock Holmes(1980、Archon Books)
1971〜1978年に発表されたシャーロキアナを対象とした続編。英語圏のみならず世界各国の出版物、映画・ラジオ・テレビ番組、レコード・カセット、パロディ・パスティーシュなど、ホームズ文化の国際的展開を記録した全621ページの大著です。
第三作:The Universal Sherlock Holmes(1994、メトロポリタン・トロント図書館)
三部作の集大成。正典60作品・アポクリファ・翻訳(63言語+点字・速記)・高等批評・各団体の記録・ゲーム・パズル・音楽・映像・パスティーシュ・漫画にいたるまでを収録した大作です。De Waal自身の言葉を借りれば、「広告からワインにいたるまで、世界中に蓄積されたあらゆる品目」を網羅することを目指した書誌で、全4巻(のちに索引を加えた5巻版も刊行)、総ページ数は版によって1,440〜1,789ページに及びます。Cerlox製本(プラスチックリングによる業務用製本)という図書館用の実用的な装丁で刊行されました。
本書の序文はJohn Bennett Shawが執筆しました。第一作の誕生を支えたShawが、三部作の集大成にも序文という形で関わったことは、二人の30年近くにわたる協力関係の象徴的な締めくくりです。しかしShawは刊行直前の1994年10月に亡くなっており、完成を見届けることはありませんでした。
書誌を支えたコレクター――John Bennett Shaw
John Bennett Shaw(1913年10月10日〜1994年10月)は、オクラホマ州タルサ生まれ。ノートルダム大学を卒業後(1937年)、コロンビア大学大学院、タルサ大学で修士号を取得しました。1965年にBSI正会員となり、称号「The Hans Sloane of My Age」を授与されています。多数のシャーロキアン分科会(scion society)の設立を各地で支援したことから「Johnny Appleseed of Sherlockian Scions」「Sage of Santa Fe」とも呼ばれました。
Shawのコレクションは約12,000冊の図書・3,500誌の定期刊行物・30,000枚の切り抜きおよび大量のイフェメラからなり、「世界最大の私立シャーロキアナ・コレクション」と称されました。1993年にミネソタ大学へ221箱で寄贈され、1995年10月に「John Bennett Shaw Collection」として開設。現在のミネソタ大学Sherlock Holmes Collections(60,000点超)の中核を成しています。
Shawはまた、シャーロキアン研究者が読むべき文献100冊を選定した 『The Basic Holmesian Library』(通称「Shaw 100」)を編みました。1983年2月に初版が出され、1988年10月に改訂。1993年12月の The Baker Street Journal(Vol.43 No.4)にも掲載され、1998年にはCatherine Cookeが改訂増補版を編んでいます。仁賀克彦氏が1975年のエッセイで必読文献を列挙した姿勢と重なるこのリストは、英語圏のシャーロキアン入門書誌として今も参照されています。
なお、De Waal自身のコレクションは後年、ソルトレイクシティのSam Weller書店を通じて一括売却されています。二人の偉大なコレクターが築いた蓄積は、それぞれ異なる形でシャーロキアン研究の公共的基盤へと引き継がれました。
De Waalの歴史的意義
De Waalの書誌が持つ意義は、三つの観点から語ることができます。
コミュニティの記録としての価値。 ホームズ文化はファン団体・パロディ・記念グッズ・舞台・映像など、多様な実践を含みます。De Waalはそのすべてを等しく記録しようとしました。彼の書誌はシャーロキアンというコミュニティの歴史的アーカイブとして機能しています。
国際的視野の先駆けとしての価値。 1970〜80年代において、英語圏のみならず各国のホームズ関連出版物・番組・団体を網羅しようとした姿勢は当時として先進的でした。日本を含む世界各国のシャーロキアン活動も収録されており、非英語圏の研究者にとっても参照資料としての意義を持ちます。
書誌体系の基準としての価値。 後継者Timothy J. Johnsonが明示しているように、De Waalの主題分類体系はそのまま現在の書誌プロジェクトにも引き継がれています。彼の枠組みが、その後の書誌的継承の土台となりました。
補完する二系統――記述書誌と注釈版正典
De Waalの列挙書誌と並んで、研究者が参照すべき書誌的著作がもう二系統あります。
記述書誌:Green & Gibson
Richard Lancelyn Green(1953〜2004)とJohn Michael Gibsonによる 『A Bibliography of A. Conan Doyle』(初版:Clarendon Press、1983年/改訂増補版:Hudson House、2000年)は、De Waalとは異なる軸に位置する書誌です。
分析書誌学の成果を踏まえた記述書誌であり、ドイルの著作そのものを体系化しています。各作品の初出雑誌・初版本の刊行情報、版次ごとのテキスト異同、英米両版の先後関係など、稀覯本の版・刷・状態(edition / issue / state)の識別に直接役立つ情報が詳細に記されています。古書目録に「per Green & Gibson」という記載を見かけることがありますが、それはこの書誌が版本識別の参照基準として機能しているためです。Graham Greeneによる序文付き、改訂版は全726ページです。1984年にミステリ作家協会の特別エドガー賞を受賞しています。
たとえば The Adventures of Sherlock Holmes(Green & Gibson エントリー番号:A10a)の初版を評価するとき、英版(George Newnes、1892年10月14日刊、10,000部)が米版(Harper & Brothers、翌15日)に一日先行すること、初版第一刷の識別ポイントとして表紙の街路標識に名前がない点(there is no name on the street sign)、およびp.317の「Miss Violent Hunter」誤植(Violetの誤植)といった情報が詳細に記録されています。Christie’sのオークション・カタログがこの版を「Green and Gibson A10a」と明示的に引用していることからも、本書が版本識別の業界標準として機能していることがわかります。
「この作品は世界でどう受容されたか」を調べるにはDe Waal、「この作品の刊行経緯と版本間の異同を確認する」にはGreen & Gibson、という使い分けが研究の実際です。両者は対立するものではなく、異なる問いに答える補完的な書誌です。
改訂増補版(2000年)がカバー範囲・精度ともに上位互換であり、現在もAbeBooks等の古書市場で入手可能です。絶版につき重版の予定はなく、良品があれば確保しておく価値があります。
なお、Lancelyn Green自身は2004年3月に50歳で亡くなっており、Christie’sで予定されていたドイル関連資料の競売問題と時期が重なったことから大きな議論を呼びました。検死官は自殺の可能性が最も高いとしながらも他殺を排除できず、「オープン・ヴァーディクト(死因不明)」を記録しました。その経緯については現在も多く語られています。The New Yorker が「Mysterious Circumstances」と題して特集を組んでいます。シャーロキアン研究にとって大きな喪失でした。
注釈版正典:Baring-GouldからKlingerへ
William S. Baring-Gould(1913〜1967)の 『The Annotated Sherlock Holmes』(全2巻、Clarkson N. Potter、1967年)は、正典60作品すべてに注釈・図版・年代考証・参考文献を付した先駆的な注釈版正典です。シャーロキアン「高等批評(Higher Criticism)」の蓄積を集大成した当時としての画期的な試みであり、その後の注釈版の範型となりました。Internet Archiveでカバーなど一部参照できます。

このBaring-Gould版を現代水準で更新したのが、Leslie S. Klingerによる 『The New Annotated Sherlock Holmes』(全3巻、W. W. Norton、2004〜2005年)です。注釈2,000件超・図版800点超という規模で、エドガー賞批評・伝記部門を受賞しています。(これとは別の10巻本もあります。詳しくは第5章へ。)
日本について調べるなら
De Waalの書誌は、日本のシャーロキアナも収録しています。The Universal Sherlock Holmes には、日本語翻訳書・JSHC(日本シャーロック・ホームズ・クラブ)の活動記録・日本のパスティーシュ作品などが含まれており、1994年以前の日本語資料の存在確認という用途においてDe Waalは有力な参照先となります。
1994年以降の日本語資料については、Johnson版のカバーが部分的にとどまるため、JSHCの会誌『ホームズの世界』などの一次資料にあたることが現実的です。
De Waalの継承者――Timothy J. Johnson
De Waalが Universal Sherlock Holmes をまとめた1994年以降、デジタル時代の新たな資料群は急速に膨らみました。その継承を試みているのが、ミネソタ大学図書館員Timothy J. Johnsonによる 『A Holmes and Doyle Bibliography』(10冊からなるPDFシリーズ)です。
De Waalの主題分類体系を継承しつつ、1994年以降の資料(単行本・雑誌論文・映像音声資料)を対象に、著者順・主題順に整理したデジタル書誌として、2018年にミネソタ大学のUniversity Digital Conservancyにて無償公開されました。
デジタル時代と書誌
1994年以降、ホームズをめぐる資料は映像配信・ウェブ記事・ポッドキャスト・SNSなど、従来の書誌的枠組みでは捕捉しにくいメディアへと急速に拡散しました。Johnson版がPDF形式の「進行中の書誌」として公開されたのは、紙の書誌として随時更新することの限界を認識してのことです。
一方で、デジタル化によって利点も生まれています。Internet ArchiveによるDe Waal第一作のデジタル公開、Johnson版の無償公開など、かつては入手困難だった書誌へのアクセスが格段に容易になりました。検索エンジンによる全文検索も、索引引きとは異なる発見的な文献探索を可能にしています。
ただし、デジタルで代替できないものもあります。Green & Gibsonの記述する版本識別情報は書誌テキスト固有の情報であり、現時点でデジタル代替は存在しません。また、De Waalの注釈に込められた個別コメントの価値も、単純なデータベース化では失われます。デジタル書誌と紙の書誌は対立するものではなく、用途に応じた使い分けが求められます。
用途別参照先一覧
| 用途 | 参照先 | 形態 |
|---|---|---|
| 版本識別・版本間の異同確認 | Green & Gibson 『A Bibliography of A. Conan Doyle』改訂増補版(2000年) |
紙 古書市場で入手可 |
| 二次文献・受容史の確認(〜1994年) | De Waal 『The Universal Sherlock Holmes』(1994年) |
紙/デジタル 古書市場/第一作はInternet Archive |
| 二次文献・受容史の確認(1994年〜) | Timothy J. Johnson 『A Holmes and Doyle Bibliography』(2018年) |
PDF無償公開 University Digital Conservancy(ミネソタ大学) |
| 正典の注釈・現代的研究参照 | Klinger 『The New Annotated Sherlock Holmes』(2004〜05年) |
紙 入手容易 |
| 注釈版の古典・高等批評の歴史 | Baring-Gould 『The Annotated Sherlock Holmes』(1967年) |
紙/Internet Archive 古書市場 |
| 探偵小説史・ホームズ研究の歴史的文脈 | Haycraft 『Murder for Pleasure』(1941年) |
紙 Dover版で入手可 |
シャーロキアン研究は蓄積が深い分野ですが、先人が残した書誌という地図を手に持って歩けば、その深さは迷宮ではなく宝庫に変わるはずです。版本を確認したいときはGreen & Gibson、先行研究を洗いたいときはDe WaalとJohnson、テキストに立ち返りたいときはKlinger――書誌を使い分けることが、研究の効率と精度を高める最初の一歩です。



コメント