正典の歴史(前編)――Beeton’s Christmas AnnualからThe Strand Magazineまで

研究ガイド

正典が読者のもとに届けられた媒体としての雑誌の歴史を、1887年の『緋色の研究』から1927年の『シャーロック・ホームズの事件簿』完成に至るまで辿ります。本章は第2章の「初出」欄を歴史化する章であり、第4章(後編:単行本・初版本・版本の変遷)とは明確に違った目的を持つものです。読者が「正典」として手にする60作品は、最初から一つの全集として存在したのではなく、まずは月刊誌の連作として、挿絵とともに読まれました。本章はその事実を前提に、出版の時間軸で正典を描き直します。

1. 本章の射程と第4章との切り分け

本章は「正典の歴史(前編)」として、1887年から1927年に至る雑誌掲載史を扱います。副題「Beeton’s Christmas Annual から The Strand Magazine まで」が示すとおり、正典が読者に届けられた媒体としての雑誌の歴史です。第4章(後編)は「単行本・初版本・版本の変遷」、すなわち雑誌掲載された作品が書籍として固定され、収集の対象になっていく過程を扱います。前編は「読者が最初に出会った正典=雑誌」、後編は「正典が物として成立する過程=書籍」と分けて考えてください。

第2章で「掲載誌の出版史や、シドニー・パジェットらによる挿絵については第3章に譲ります」と申し上げたとおり、本章は第2章の「初出」欄を歴史叙述として展開する役割を担います。ただし本章では作品のあらすじや事件内容には踏み込まず、「いつ・どの誌に・誰の挿絵で・読者にどう迎えられたか」に集中します。また、第1章で扱った年代学(事件の作中時系列)と、本章の出版史(掲載の時系列)は別物です。読者の混同を避けるため、本章では「作中事件の時期」には言及せず(必要な場合はHOUN等の枠づけに限定します)、一貫して「掲載・出版」の時系列で語ります。

出版史には「伝承」として語られる逸話が多くあります。Paget兄弟の誤配伝説、Walterがモデルであった説、『最後の事件』掲載時の喪服などがその代表です。本章ではこれらを「伝承として語られるが確証はない」と書き分け、確定事実と伝承を混同しないよう努めます。数値(部数・点数・価格)も、出典が確認できるもののみ記します。

2. 1887年:Beeton’s Christmas Annual と『緋色の研究』

正典の出版史は、1887年11月、Beeton’s Christmas Annual(第28シーズン)の表題作として『緋色の研究(A Study in Scarlet)』がWard, Lock & Co.(ロンドン、Warwick House, Salisbury Square)から刊行されたことに始まります。これがホームズとワトスンの初出です。Best of SherlockのチェックリストArthur Conan Doyle Encyclopediaの該当項目に、書誌が整理されています。Beeton’s Christmas Annualは、サミュエル・オーチャート・ビートンが1860年に創刊した年刊のペーパーバック雑誌で、Ward, Lock & Co.に売却された後も1898年まで刊行が続きました。1887年版は彩色挿絵表紙のペーパーバックで、判型は約8.5×5.5インチ、定価1シリング、クリスマス前に完売しています。

この初出に至る経緯は、ドイル自身が自伝Memories and Adventures(1924年)第8章で語っています。ドイルは複数の出版社に原稿を持ち込んだ後、Ward, Lockから、当時の出版市場が安価なフィクションで飽和状態にあることを理由に、掲載を翌年に回すという条件つきで、著作権を25ポンドで買い取られました。ドイルは自伝で、この一件について「I never at any time received another penny for it」(この作品からそれ以降一ペニーも受け取らなかった)と明記しています。Ward, Lock側にとっては、クリスマス号での掲載にとどまらず、後続の版や映画化権まで含めて極めて有利な取引となった、と振り返っています(Memories and Adventures 第8章)。Project Gutenberg版で全文を読むことができます。

1887年版には木口木版の挿絵が添えられ、STUD部分にはフロントスピースと本文挿絵3点(2点はD.H.フリストン、1点はW.M.R.クイックの手による)が収められました。年刊の他の記事はR.アンドレとマット・ストレッチが担当しています。Sotheby’sの2007年のオークションカタログに、この挿絵構成が記録されています。ここで注意しておきたいのは、後にホームズ像を決定づけるシドニー・パジェットは、この時点ではまだ関与していないという点です。Beeton’s版の挿絵はフリストンらの手によるもので、ホームズの視覚的イメージはまだ形成途上にありました。

現存部数についても触れておきます。現存が確認されているのは約34部で、そのうち完全な状態で揃っているのはわずか11部に過ぎません。Antique Trader Vintage Magazines Price Guideは本号を「世界で最も高価な雑誌」と評しており、2007年にはSotheby’sのオークションで15万6000ドルで落札されています。Best of SherlockのチェックリストGrolier Clubの展示解説に、これらの数値が記録されています。(部数・希少性・価格に関する数値は、いずれも出典が確認できるものに限って記載する方針を、本章を通じて維持します。)なお、STUDが単行本として刊行されたのは1888年7月のことですが、書籍版の装幀・版本については第4章に譲ります。

3. 1890年:Lippincott’sと『四つの署名』――ランガム・ホテルの晩餐会

ホームズの第2作『四つの署名(The Sign of the Four)』は、1890年2月号のLippincott’s Monthly Magazine(第45巻)に掲載され、フィラデルフィアのJ.B. Lippincott Companyから、ロンドンとフィラデルフィアで同時刊行されました。誌面の表題は”THE SIGN OF THE FOUR: OR, THE PROBLEM OF THE SHOLTOS”とされ、米国版の表紙価格は25セントでした。Internet Archiveに1890年2月号の実物スキャンが公開されています。

本作は、1889年8月30日、ロンドンのランガム・ホテルで開かれた晩餐会に由来します。主催はLippincott’sの編集者ジョゼフ・マーシャル・ストッダートで、出席者はストッダート、オスカー・ワイルド、ドイル、アイルランドの下院議員T.P.ギルの4名でした。日付と会場はJ.B. Lippincott Companyの社史資料と記念の銘板によって確認でき、出席者についてもドイル自身の回想と符合します。Historical Society of Pennsylvaniaの解説記事Oscar Wilde Societyの銘板紹介ページに、詳細がまとめられています。ドイルは自伝で、この夜を「It was indeed a golden evening for me」(私にとってまさに黄金の晩であった)と記しています。出席者については、ストッダートを「an excellent fellow」と評し、アイルランドの下院議員T.P.ギルとオスカー・ワイルドが同席していたことを具体的に挙げています(Memories and Adventures 第8章)。Project Gutenberg版で該当箇所を確認できます。

この席で両作家に中編の依頼がなされました。ドイルは『四つの署名』を1890年2月号に、ワイルドは『ドリアン・グレイの画像』を同年7月号に、それぞれLippincott’sに寄稿しています。ドイルは、ワイルドがすでに自作の『マイカ・クラーク』を読んでいてくれたことに感謝し、この席で完全な部外者という気にはならなかったと書き残しています。

ワイルドとの関係は出版史上の著名なエピソードですが、本章では日付・出席者・各作品の掲載号を、確認できた事実の範囲にとどめます。「二人の作品が一夜にして生まれた」といった劇的な叙述は避けます。本節では、正典の第2作が、米国発の雑誌Lippincott’sから生まれたという出版上の事実を確認しておきます。

4. 1891年:The Strand Magazine創刊と『ボヘミアの醜聞』

ホームズの出版史を大きく変えるのは、1891年に創刊されたThe Strand Magazineの登場です。Strandは、ジョージ・ニューンズ(1851-1910)が創刊した月刊の絵入り大衆雑誌で、1891年1月号が第1号にあたります。刊行は1950年3月まで続きました。レジナルド・パウンド『Mirror of the Century: The Strand Magazine 1891-1950』(1966年)が、この雑誌の正史にあたります。ニューンズは、すでにペニー週刊誌Tit-Bits(1881年創刊)で成功を収めており、Strandを、米国のScribner’sHarper’sに対抗する英国の絵入り月刊誌として構想しました。City, University of Londonの研究論文に、この経緯が記されています。

Strandは6ペンス、約112ページ(後に120ページ)、二段組の誌面構成で、編集部はロンドンのバーレイ・ストリート(ストランド通り沿い)に置かれました。創刊号は約30万部を売りました。編集を担ったのはハーバート・グリーンハウ・スミス(1855-1935)で、1891年から1930年まで文芸編集者を務めました。ニューンズは創刊者・名目上の編集者という位置づけで、実質の編集はH.G.スミスが担っていました。

『ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)』はStrand1891年7月号に発表され、シドニー・パジェットの挿絵10点を添えて掲載されました。これが56篇のホームズ短編の第1作であり、同誌は以後1927年4月まで、この56篇すべてを掲載し続けます。Grolier Clubの展示解説に、この経緯がまとめられています。

H.G.スミスは、この原稿を一読して直ちにその価値を認め、ポー以来のもっとも優れた短編作家の登場だと確信し、興奮してニューンズの部屋へ駆け込み、その原稿を彼の目の前に突き出したことを後に回想しています(Pound『Mirror of the Century』による)。

H.G.スミスは当初6篇のシリーズをドイルに依頼しましたが、これが好評を博し、Strandの成功に直結しました。

全12篇は1891年7月から1892年6月まで月刊で掲載され、1892年10月14日、George Newnesから単行本『The Adventures of Sherlock Holmes』としてまとめられました。Arthur Conan Doyle Encyclopediaの該当項目に記録されています。

5. Adventures期:月刊連作としてのホームズ

Adventures期で強調しておきたいのは、ホームズが「単発の長編」ではなく、「毎月1作ずつ読める連作」として読者に定着した、という点です。月刊誌のサイクルに乗せた短編連作という形式は、Strandとホームズが互いの成功を支え合う要因になりました。Stanford大学の解説ページが、この構造を紹介しています。長編2作(STUD、SIGN)はそれぞれ単発の依頼として生まれましたが、Strandにおけるホームズは、「続きを読める」連作として読者に迎えられることになりました。

読書体験の特色は、挿絵つきで、一読完結の短編が毎月届くという消費のしかたにありました。本文と挿絵が並存する誌面の構成は、ホームズをテキストのみならず視覚的イメージとしても受容する土壌を作りました。各作品のあらすじ・事件内容は第2章に譲り、本節では「連作としての受容構造」に集中します。Adventures期の12篇が1891年7月から1892年6月まで月刊で掲載され、同年10月に単行本化されたという出版の事実は、第4章で書籍史として改めて扱います。

Adventures期の成功は、ホームズをStrandと不可分の存在にしました。以後、ホームズの短編はStrandという媒体を通じて読者に届けられることが常となり、次のMemoirs期、そして『最後の事件』へと続いていきます。

6. Sidney Pagetと視覚化されたホームズ

ホームズの視覚的イメージを形成した挿絵家が、シドニー・エドワード・パジェットです。パジェット(1860年10月4日-1908年1月28日)はStrand掲載のホームズ作品の挿絵を担当し、正典の「視覚的イメージ」を形作った英国の挿絵家でした。Dictionary of National Biography Second Supplement(1912年)第2巻に、彼の伝記項目が収められています。パジェットは、ホームズ長編1作(HOUN)と短編37篇の挿絵を担当し、1891年から1904年にかけて発表した挿絵は約356点に及びます。彼には2人の兄弟、ヘンリー・マリオット・パジェット(1857-1936)とウォルター・スタンリー・パジェット(1862-1935)がおり、どちらも挿絵家でした。

パジェットの起用をめぐっては、よく語られる伝承がひとつあります。Strandは本来、弟ウォルターに依頼するつもりだった手紙を「Mr. Paget」宛に出したため、誤って兄シドニーに仕事が回った、というものです。しかし、アイラ・B・マテツキーの論文(「Another Sherlockian Myth Debunked: Time to Turn the Page(t)?」、Baker Street Journal第69巻2号、2019年夏号、6-10頁)は、シドニーの起用が偶然ではなかったことを実証し、この伝承を否定しました。Baker Street IrregularsのBSIモーリー=モンゴメリー賞受賞発表で確認できます。本章では「伝承として語られるが、確証はなく、近年の研究は否定的」と明記しておきます。

これに関連して、シドニーがホームズの容姿のモデルに弟ウォルターを用いた、という俗説もあります。しかし1912年のDNB Second Supplementは、画家の弟ウォルター、あるいは他のいかなる人物も、シャーロック・ホームズの肖像のモデルになったという主張は不正確だと明記しており、この情報の出所をヘンリー・マリオット・パジェットに求めています。この説も同様に「伝承だが、家族筋は否定している」という扱いにとどめます。

なお、ウォルター・パジェットは、シドニーの死後、1913年12月号の『瀕死の探偵(The Dying Detective)』の挿絵4点を担当しました。これが、ウォルターが手がけた唯一のホームズ作品です。Arthur Conan Doyle Encyclopediaの該当項目に記録されています。パジェットの挿絵には、ホームズが鹿撃ち帽(deerstalker)をかぶる場面がしばしば描かれ、これを通じて、鹿撃ち帽がホームズの視覚的イメージに結びついていきました。ただし後述のとおり、パイプと帽子の組み合わせが定着するには、米国の挿絵家スティールも大きく関わっています。

最後に、原画の現存状況にも触れておきます。パジェットが手がけたホームズ挿絵の原画のうち、現存が確認されているのは、2014年のロンドン博物館展覧会の時点でわずか約27〜30点に過ぎません。Best of Sherlockの展覧会紹介記事に記録されています。発行点数(約356点)に比べ、原画の現存はきわめて少ないのが実情です。図像研究・限定本挿絵・各国版の挿絵家の変遷は、第13章「シャーロキアン専門出版の世界」および図像研究に譲ります。

7. Memoirs期と『最後の事件』――大空白時代(Great Hiatus)の始まり

Adventures期に続き、Memoirs期もStrandで連載されました。そして1893年12月、『最後の事件(The Final Problem)』が、英国ではStrandに、米国ではMcClure’s Magazineに、それぞれ掲載され、ホームズはモリアーティ教授とともにライヘンバッハの滝へ姿を消しました。Internet ArchiveのStrand第36号(1893年12月号)McClure’s Magazine1893年12月号のスキャンで実物を確認できます。本作はMemoirsの最終作として位置づけられ、ホームズの退場を意味しました。

読者反応については、約2万人の読者が購読を取り消したという逸話が各所で伝えられていますが、この数字を裏づける一次資料は見当たりません。Strandの正史Mirror of the Century(1966年)を著したレジナルド・パウンドは、ジョージ・ニューンズが1893〜94年の株主宛報告でホームズ退場を「a dreadful event(忌まわしい出来事)」と述べたと記す一方で、雑誌が存亡の危機に瀕したとまでは述べていません。むしろパウンドは、ホームズ連作こそがStrandを成功に導いた原動力だったと位置づけています。購読取消し数や存亡の危機については、ソースがないため伝承的な側面が強いと言えるでしょう。

ドイル自身は自伝『Memories and Adventures』(1924年)の中で、この一件をめぐる読者の反応の大きさに驚いたと振り返っています。抗議の手紙が届いたこと、多くの人が泣いたと人づてに聞いたことなどを記す一方で、自身はむしろ新しい想像の野に踏み出す機会を得たことを喜んでいたとも述べています。高額な報酬という誘惑を断ち切ることの難しさについても、率直に触れています。なお「You brute!」で始まる手紙があったという逸話は二次文献で広く引用されますが、自伝本文にそのままの文言が残っているわけではなく、本章では「読者から強い抗議の手紙が届いた」という事実の範囲にとどめます。

読者が喪章(黒のクレープ)を着けてホームズの死を悼んだという逸話も広く語られていますが、同時代の資料では確認されていません。ピーター・カラマイはBaker Street Journal第63巻1号(2013年春号)で、この伝承の確認可能な最古の例をジョン・ディクソン・カーによる1949年のドイル伝記に求め、エイドリアン・コナン・ドイルが情報源であった可能性を指摘しています。Baker Street Irregularsの読者への挑戦状のページで確認できます。本章では「伝承として語られるが、一次資料での確証は薄い」と扱います。

この掲載は、のちに「大中断(the Great Hiatus)」と呼ばれる期間の起点となりました。『最後の事件』以後、ホームズの物語内での生還と短編シリーズの本格再開は、1903年の『空き家の冒険』まで待たれることになります。ただしその間、過去の事件として『バスカヴィル家の犬』が1901〜1902年に連載されたため、出版史上、完全な空白があったわけではありません。Stanford大学の解説ページに、この経緯がまとめられています。なお『最後の事件』の米国での雑誌初出はMcClure’s Magazineでしたが、実際には同年11月26日付の新聞各紙への配信の方が先行しており、McClure’sはあくまで「米国の雑誌初出」として位置づけるのが正確です。

8. 『バスカヴィル家の犬』――復活前の例外的位置

『最後の事件』から8年後、ホームズはStrandに戻ります。ただし、それは「復活」ではありませんでした。『バスカヴィル家の犬(The Hound of the Baskervilles)』は、Strandに1901年8月から1902年4月まで、9回にわたって連載された長編です。Arthur Conan Doyle Encyclopediaの該当項目に、連載の詳細が記録されています。本作はホームズの本格復活ではなく、ワトスンの手記に残る「過去の事件」として枠づけられており、作中の設定年代は1880年代後半に置かれています。

すなわち、『最後の事件』の掲載から8年を経てStrandに戻ったホームズではありますが、それはあくまで「過去譚」という例外的な位置づけでした。ドイルはホームズを生き返らせるのではなく、過去の事件として語ることで、連載を再開したのです。HOUNの挿絵はここでもパジェットが担当しました。本作が単行本として書籍化される経緯は第4章に譲ります。

本作は、次に述べるReturn期における本格復帰(1903年『空き家の冒険』)への橋渡しとして位置づけられます。読者はHOUNでホームズの「過去の事件」を受け取ったのち、EMPTで「存命のホームズ」を再び目にすることになります。

9. Return期以降の英米掲載――Collier’sとFrederic Dorr Steele

ホームズの本格復帰は1903年に実現しました。1903年9月26日号のCollier’s Weekly(米国)と、同年10月号のStrand(英国)に、『空き家の冒険(The Empty House)』が掲載され、ホームズはここで本格的に復帰します。米国版の挿絵はフレデリック・ドール・スティール、英国版の挿絵はシドニー・パジェットが、それぞれ7点手がけました。これがRET(The Return of Sherlock Holmes、13篇)の第1作にあたります。Internet ArchiveのCollier’s Weekly該当号で実物を確認できます。

Return期から、英米の掲載媒体が本格的に分かれてきます。米国側では、Collier’sがRETURN13篇の初出誌を担いました。挿絵を担当したスティールは、RETURN全篇の挿絵に加えて、彩色表紙11点、本文挿絵約50点を制作しています。スティールはさらに、1903年以降に書かれた33篇のうち米国初出26篇の挿絵を手がけ、1903年から1944年までの間に、ホームズ挿絵を165点以上残しました。fdsteele.orgの解説に、詳しい内訳が記録されています。

スティールは、ホームズの容姿のモデルに、米国の俳優ウィリアム・ジレットを用いました。ただし、これはジレットの舞台写真をもとに制作されたもので、スティール自身が本人に直接会ったことはなかったといいます。Grolier Clubの展示解説に、この経緯が記されています。スティールは、ホームズと湾曲パイプ(calabash pipe)、そして鹿撃ち帽との結びつきを広めるうえでも大きな役割を果たしました。パジェットが描いた鹿撃ち帽と、スティールがジレットを通じて定着させた舞台的なイメージ――この2つが合流して、今日私たちが思い浮かべるホームズの視覚的イメージが成立していったのです。なお、Collier’sは1892年時点で、部数25万部を超える米国の大衆誌でした。英米の掲載時差についても触れておくと、RETURN各篇では、Collier’sStrandより数日早く発売される場合がありました。

10. 事件簿期の掲載媒体――Hearst’s・Liberty・Strandの併存

事件簿期(1921〜1927年)に入ると、米国側の掲載媒体はさらに多様化します。Hearst’s International(1919〜1921年)やLiberty(1926〜1927年)が、この時期の米国初出を担いました。Arthur Conan Doyle Encyclopediaの掲載誌一覧に、この変遷がまとめられています。一方、英国側では引き続きStrandが、事件簿収録作の多くの初出誌であり続けます。後期の作品になると、「英国のStrandだけを見ていれば足りる」という前提そのものが崩れていくことになります。

掲載媒体と時差の例を挙げておきます。RETURN期はCollier’s(米)がStrand(英)より数日早く出る例があったこと、事件簿期は誌ごとに初出そのものが異なることが特徴です。全60作品の初出を一覧にした表は第2章に譲ります。本章では、正典の後期になると英米の掲載媒体が分岐し、単一の誌だけでは全篇を追えなくなるという出版上の事実を確認しておきます。

11. 挿絵家の広がり――Pagetから Steele、そして周辺

正典の挿絵は、パジェット(英)とスティール(米)という二人の主要挿絵家に集約されますが、この二人以外にも、周辺の挿絵家が存在します。本章では彼らを資料案内程度に紹介するにとどめ、深入りはしません。STUD初出のBeeton’sでは、D.H.フリストンが挿絵を担当し、パジェット以前のホームズ像を残しました(第2節参照)。SIGNのLippincott’s掲載時には、ハーバート・デンマンが挿絵を手がけています。Arthur Conan Doyle Encyclopediaの該当項目に記録されています。

図像研究・限定本挿絵・各国版の挿絵家の変遷は、第13章「シャーロキアン専門出版の世界」および図像研究に譲ります。本章が押さえておくのは、正典の挿絵がパジェットとスティールという二人の挿絵家によって骨格が形成され、その間にフリストン、デンマン、さらにウォルター・パジェットといった周辺の挿絵家が存在した、という事実です。スティールのRETURN挿絵は、カバーを含む彩色表紙11点が特によく知られており、パジェットの挿絵と並んで、正典の視覚的受容を支える二本柱となりました。

12. まとめ:雑誌連載の歴史

正典は、最初から「全集」として存在していたのではありません。月刊誌の連作として、挿絵とともに、英米の並行掲載と時差のなかで読まれていった――これが本章の結論です。Beeton’s(1887年)→Lippincott’s(1890年)→Strand(1891年以降)という3つの初出誌が、正典が読者に届けられた媒体の歴史を形作りました。パジェットとスティールという二人の主要挿絵家が、テキストとは独立に、ホームズの「視覚的イメージ」を成立させ、それは舞台化(ジレット)や、のちの映像作品にも引き継がれていきました。

本章で確認した事実を整理しておきます。第1作STUDは年刊のBeeton’sから、第2作SIGNは米国発のLippincott’sから生まれました。そしてSCAN以降の56篇はStrandを主舞台とし、米国ではCollier’sMcClure’sHearst’s InternationalLibertyが初出を分かち合いました。ホームズの退場(FINA、1893年)と復帰(EMPT、1903年)のあいだには、過去譚としてのHOUN(1901〜1902年)が挟まれています。読者反応のなかには伝承として語られるものもあり、購読解除2万件や喪服の逸話は一次資料の確証が薄いため、本章では「伝承」として書き分けました。

これらの雑誌掲載を経た作品が、やがて単行本として固定され、収集の対象になっていく過程は、次の第4章「正典の歴史(後編)」で扱います。前編が「読者が最初に出会った正典=雑誌」を辿ったのに対し、後編は「正典が書籍として成立する過程」を辿ります。本章はその前半として、雑誌という媒体のなかで正典が読まれ、視覚的イメージが形成されていった歴史を確認しました。


参考文献・一次資料(本章で使用した主な出典)

A. 一次資料(掲載誌そのもの・ドイル自身の著作)

B. 主要二次資料(出版史・書誌)

C. 挿絵史関連

D. 雑誌史・読者反応関連

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