2026年10月23日:ホームズはどう扱われてきたか 法学編:顔を見れば嘘がわかるのか、カナダの判事が読む「ボヘミアの醜聞」と「赤髪組合」

シャーロッキアン日記

昨日紹介した『Canadian Holmes』2026年秋号(第49巻第4号)の目次を眺めていて、一本の論考のタイトルが気になりました。ジル・ルノー(Gilles Renaud)さんの「The Dancing Men and demeanour evidence」です。demeanour evidence(供述態度)は法廷の用語なので、著者は法律家だろうと思い調べてみました。すると、ルノーさんはカナダ・オンタリオ州裁判所で長く判事を務めた法律家で、カナダの警察実務誌『Blue Line』に、ホームズ物語を素材にした捜査官向けの文章を2本書いていることが分かりました。どちらも誰でも読めるので、今回はシリーズ「ホームズはどう扱われてきたか」の法学編として、この2本を紹介します。

書き手:ジル・ルノー判事

2本に共通する著者紹介によると、ルノーさんは掲載時の2023年、オンタリオ州裁判所の判事を28年務めて退官を控えていました。判事になる前は、オタワで検察官を務め、連邦司法省の戦争犯罪・人道に対する罪部門でも訴追にあたっていました。キャリアの出発点は刑事弁護人で、法律書を9冊(うち3冊はフランス語)書いています。供述態度については、2008年にDemeanour Evidence on Trial: A Legal and Literary Criticismという単著を出しています。弁護・訴追・裁判のすべての立場を経験し、供述態度を長年研究してきた実務家が、現役の捜査官に向けて書いた文章ということになります。

2本の論考

掲載日 題名 素材と主な論点
2023年5月3日 Investigations 101: Lessons from Sir Arthur Conan Doyle’s The Adventures of Sherlock Holmes 「ボヘミアの醜聞」。誘導尋問、態度の読み取り、日常的な事柄の記憶、ステレオタイプ、捜査と感情
2023年9月15日 Investigations 101: The case of “The Red-Headed League” by Sir Arthur Conan Doyle – Instruction for modern-day detectives 「赤髪組合」。供述態度、語り手の脚色、面接、記憶、警察官の職業倫理

どちらも冒頭に、「ボヘミアの醜聞」でホームズが言う「データがないうちに理論を立てるのは大きな誤り」という台詞を掲げています。ホームズを捜査の模範として紹介する、おなじみの入り方です。ところが本論に入ると、ルノーさんはホームズ物語を、捜査官の判断の限界を学ぶ教材として読んでいきます。

ワトスンには読めても

「ボヘミアの醜聞」論の出発点は、物語の冒頭近くの一場面です。

見あげれば、彼の部屋はあかあかとあかりが輝いている。そればかりか、ほんのちょっと見あげているあいだにも、背のたかいやせた彼の影法師が、二度までブラインドにちらついた。頭を深く垂れ、手をうしろに組んで、もの思いにふけりながら、せかせかと部屋のなかを歩きまわっているのだ。彼の気持や習癖をよくのみこんでいる私には、その態度なり挙動なりで、何もかもがよくわかる。彼はまた事件を手がけているのだ! 

ルノーさんは、ワトスンのこの結論は正しかっただろうと認めます。そのうえで、ホームズをそれほどよく知らない他人が、同じ結論に達してよいのかと問います。さらに、親友のワトスンでさえ、再会したホームズが喜んでいるのかどうか確信が持てなかったではないか、とも指摘します。正典でワトスンは、ホームズの態度は感情をあらわにするものではなかったが、私に会えて喜んでいたと思う、と書いています。

この問いは、半年後の「赤毛組合」論にそのまま引き継がれます。ホームズが指先を合わせるのは「判事のような気分のときのいつもの癖」で、椅子の上で身をよじるのは「上機嫌なときの癖」だとワトスンは説明します。ルノーさんは、それが分かるのはワトスンが長年の同居人だからで、初対面の相手を一度の面接で判断する捜査官には同じ読み方はできない、と言います。2本を通して、ワトスンに理解できるホームズの身振りを、初対面の捜査官も理解できるとは限らない、という一本の線が見えてきます。

供述態度とは何か

供述態度とは、証人などの表情や視線、身振り、話しぶりといった振る舞いを、供述の信用性を判断する材料として用いるものです。「目をそらしたから嘘をついている」「堂々としているから本当だ」という判断がその典型です。ルノーさんの論考は、法廷の証人だけでなく、捜査段階で警察官が話を聞く相手の態度も対象にしています。

ルノーさんは2本のどちらでも、カナダの裁判所がこの供述態度をどう扱っているかを、2022年のオンタリオ州上位裁判所の判決(R v Batchelor)の同じ箇所を引いて説明しています。私なりに要点をまとめると、次の4点になります。

  • 態度は、法廷の内でも外でも誤読されやすく、冤罪の一因になってきた。
  • 証人を評価するには、態度よりも、重要な点についての供述の一貫性や他の証拠との整合性、不合理な点を検討するほうが有益である。ただし、矛盾にも些細なものと重要なものがあり、その性質を見分ける必要がある。
  • それでも態度は無意味ではなく、答えに詰まる、質問をはぐらかすといった証言の仕方は、他の証拠と合わせて慎重に考慮してよい。
  • ただし、態度だけで信用性を決めてはならない。証人の生い立ちや固定観念、法廷という特殊な場の緊張など、態度を左右する要因は多い。

この判決は、法廷でニカブ(顔を覆うベール)を着けたまま証言できるかが争われた、カナダ最高裁の2012年の事件(R v N.S.)にも言及しています。ただし、参照されているのはアベラ判事の反対意見の部分です。アベラ判事は、態度はもともと信用性を測る不正確な道具の一部にすぎないと論じました。これに対して多数意見は、証人の顔が見えることは効果的な反対尋問と信用性の評価にとって重要だという、コモン・ローに深く根づいた前提を維持しています。もっとも多数意見も、顔の見えない証人を前にして、裁判官が自分の信用性判断を過信しないよう戒めています。態度をどこまで手掛かりにできるかについては、最高裁の内部でも見方が分かれていたわけです。

私がいちばん印象に残ったのは、「赤髪組合」論でルノーさんが紹介している、カナダ租税裁判所のボウマン長官の言葉です(Faulkner v. M.N.R., 2006 TCC 239)。要約すると、平然と目を見て嘘をつく人もいれば、正直なのに目をそらし、口ごもり、話が支離滅裂になる人もいる。証言が対立したとき、裁判官が正しく判断できる確率はおそらく五分五分を超えず、直感だけに頼ればそれを下回るだろう、というものです。これは実験で測定された正答率ではなく、自分たちの判断も誤りうるという自覚を求める、判決の中の戒めです。それでも、裁判官自身が顔色を読むことの限界をここまで率直に認めているのは驚きでした。

日本の刑事訴訟との接点

日本の読者向けに少し補足します。日本の刑事訴訟にも、公判期日外の供述を、その内容が真実であることを証明するために用いる場合、原則として証拠能力を認めないという伝聞法則があります(刑事訴訟法320条1項)。その趣旨について、通説的な説明では、宣誓と偽証罪の予告、相手方当事者による反対尋問、そして裁判所による供述態度の観察という「信用性のテスト」を経ていない公判外の供述で、公判での供述を代替すべきではないとされます。

ただし、供述者を直接観察する機会を確保することと、表情や身振りから真偽を正しく読み取れることとは、別の問題です。ルノーさんが紹介する判例の警告は、この二つを区別して考える手掛かりになると思います。

「赤髪組合」の顔色を読む

「赤髪組合」論でルノーさんは、物語に出てくる表情や仕草の描写を一つずつ取り上げて、供述態度の危うさを示していきます。主なものを表にまとめました。「語りの経路」の列は、ルノーさんの論考にはない私の補足です(延原訳だと意訳的なところもあるので直訳に近く書いています)。

描写 誰の 語りの経路 ルノーさんの問い
脂肪に埋もれた小さな目で、問いかけるようにちらりと見る ウィルソン ワトスンが目撃 一瞬の視線を、記録もなしに正確に書き留められるか
燃えるような赤毛の生え際まで真っ赤になる ウィルソン ワトスンが目撃 赤面から、いったい何が分かるのか
妻や家族はいるかと尋ね、いないと聞くとたちまち顔を曇らせる ダンカン・ロス ウィルソンの体験談 落胆したとして、それが何を意味するのか
それを聞いて、私の顔は長くなった ウィルソン ウィルソン本人の申告 (同上。ロスの反応と続けて引かれている)
悲しげな顔/いかにも不満そうな表情 メリウェザー ワトスンが目撃 27年ぶりに土曜のカードを逃すことが、悲しげな顔の理由ではないか
指先を合わせる/椅子の上で身をよじる ホームズ ワトスンが目撃 それが「いつもの癖」だと分かるのは親友のワトスンだからで、初対面の捜査官には分からない
平然と言う ジョン・クレイ ワトスンが目撃 平静のような極端な感情は、むしろ客観的に読み取れるかもしれない

表を作ってみて気づいたのは、これらの描写の性質がそろっていないことです。「赤くなる」は外から見える変化ですが、「悲しげな顔」には、すでに見た人の解釈が入っています。「いつもの癖」となると、その人を長く知っているという知識がなければ書けません。観察、解釈、相手についての継続的な知識という三つの層が、一つの描写の中に混ざっているわけです。さらに言えば、相手の感情を読み取れたとしても、それでその人の話が本当かどうかが決まるわけではありません。ルノーさんの問いを整理し直すと、こうした段階の区別が見えてくるように思います。

このほかにも、記憶を呼び起こすために嗅ぎタバコを一つまみやるウィルソンの仕草や、捕まったクレイが「サー」と「プリーズ」をつけて話せと要求し、警部が皮肉で応じる場面などが取り上げられています。後者は、被疑者には常に敬意を払い、警察は皮肉を口にすべきでない、という教訓に結びつけられています。

法律家は小説に学べ:ウィグモアのリスト

ルノーさんが、捜査官が小説を読むことの意義を説明する根拠にしているのは、アメリカの証拠法学者ジョン・ウィグモアです。ウィグモアは、法律家は人間を知らねばならず、そのためには人生の肖像を並べた画廊である小説に学ぶべきだと説きました。ルノーさんは、捜査官もまったく同じ立場にあると考えています。

ウィグモアは、法律家が読むべき「法律小説」のリストを作ったことでも知られ、これらの仕事は「法と文学」研究の源流の一つとされています。ルノーさんが引いているのは、1922年に『Illinois Law Review』に掲載された「法律小説100選」です。今回この論文の原文を読んでみて、面白いことに気づきました。

この1922年版は、1908年に発表した論考を訂正して再録したものです。その序論でウィグモアは、普通の探偵小説はリストの基準を満たさないが、ドイルの「シャーロック・ホームズ」やガボリオの『ルコック探偵』は無事に線を越える、と書いています。ところが同じ論文の末尾、リストの直前では、今回の選定では純粋な探偵小説は、どれほど優れていても除外した、この10年で探偵小説は独立したジャンルを形成したからだ、と断っています。実際、リストに載っているドイル作品は、ジェフリーズ判事の「血の巡回裁判」を描いた歴史小説『マイカ・クラーク』だけです。ウィグモアはこの作品を、そろそろ古典に数えられてよいと絶賛しています。

1908年版は約375作品を挙げる大きなリストでしたが、1922年版ではそこから約100作品に絞り込まれています。序論ではホームズを高く評価しながら、絞り込んだリストではホームズを外したことになります。ルノーさんが捜査官に小説を勧める根拠として引いたそのリストに、当のホームズは入っていないわけで、少し皮肉な巡り合わせです。ちなみに同じ序論では、E・W・ホーナングの怪盗ラッフルズものが「悪影響を及ぼす類」として最初から除外されています。ホーナングはドイルの義弟でした。

なお、1922年版のリストには、ガボリオの『ルコック探偵』や『ファイル113号』、ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』など、探偵小説と呼べそうな作品も残っています。どこで線を引いたのかは、論文からは分かりません。さらに1976年には、法学者リチャード・ワイズバーグがこのリストを改訂し、その際に大衆小説の多くを削りました。そこにはドイルの全作品も含まれていました。法律家に何を読ませるかという選択も、時代とともに変わってきたのです。

シャーロッキアンとして読むと

ここからは感想です。まず、表に並べた描写には、ワトスン自身がその場で見たものと、ウィルソンの体験談を通じて伝わるものが混じっています。ロスが顔を曇らせる場面は後者で、ワトスンは見ていません。ウィルソンが自分の目で見て、そう受け取り、ホームズとワトスンに語ったものを、ワトスンが書き留めているのです。読者が接しているのは態度そのものではなく、誰かが見て、意味づけ、言葉にして伝えた態度だということになります。しかも「赤髪組合」の冒頭で、ホームズはワトスンに、君は僕の事件を記録するとき少々脚色すると言っています。ルノーさん自身もこの台詞を取り上げ、聞き手の注目を集めている語り手の話は割り引いて聞くべきだという教訓を引き出しています。態度の解釈だけでなく、それを語り直す過程まで考えなければならないところが、正典ならではの面白さだと思いました。

次に、ホームズ自身が何を手掛かりにしていたかです。ウィルソンを一目見て、ホームズは肉体労働をしていたこと、嗅ぎタバコをやること、フリーメイソンであること、中国にいたこと、最近たくさん書き物をしたことを言い当てます。その根拠は、右手の大きさ、胸のピン、刺青、袖口のてかりといった、身体や衣服、身につけた品の特徴でした。助手スポールディングについても、ホームズはウィルソンから聞いた外見上の特徴(額の傷、耳飾りの穴)から既知の犯罪者との同一性を疑い、さらにズボンの膝の擦れや汚れから地下での作業を確かめています。少なくともこの事件の主要な推論では、ホームズは顔色より、身体や衣服、現場に残る手掛かりを重視していると言えそうです。この対比はルノーさん自身は論じていません。

「ボヘミアの醜聞」論で面白かったのは、有名な階段の場面の使い方です。何回も上り下りした階段の段数を、ワトスンは答えられません。ホームズはこれを、見ているが観察していない例として示し、段数は17段だと言います。ところがルノーさんは同じ場面を、人は日常的な事柄を正確に覚えていないものだという、ごく普通の人間の性質の例として読みます。そして、そうした事柄をはっきり覚えていると言い張る証人はむしろ疑うべきだ、と捜査官に助言しています。ホームズにとっては観察力の不足を示す場面が、ルノーさんの手にかかると、証人の記憶を評価するための教材に変わるわけです。

同じ論考では、写真の隠し場所を推理する際の、女性は生来秘密好きだというホームズの言葉も取り上げられています。ルノーさんは、ステレオタイプに基づいて動いていないかを点検する方法として、問題の人物を自分の親友に置き換えて考えてみる、という判事としての習慣を紹介しています。さらに、感情を判断の妨げとみなすホームズの姿勢には異を唱え、捜査官は感情に流されてはならないが、事件の背後で働いた感情に気づけなければ判断を誤る、と述べています。ホームズを模範として掲げつつ、ところどころで反面教師としても使っているところに、この2本の持ち味があると思います。

一方で、気になる点もあります。2本とも短編集の題名を「Sherlock Homes」とだけ書いています。「ボヘミアの醜聞」を1892年刊としているのも不正確で、初出はストランド誌の1891年7月号、1892年は短編集の刊行年です。「赤髪組合」論では、ホームズの目が輝く同じ一節が二度引用されています。また、同じ論考でホームズの「あの家に女性がいれば、ありふれた色恋沙汰を疑ったところだが」という台詞を女性蔑視の例とする指摘は一行にとどまり、「ボヘミアの醜聞」論のステレオタイプの議論ほどには展開されていません。どちらも捜査官向けに多くの教訓を並べる文章で、文学作品の解釈や個々の主張の論証を深く掘り下げたものではありません。

このシリーズでの位置づけ

ゲーム理論編で、他分野でのホームズの使われ方を「方法のモデル」「例題」「分析対象」「人物類型」の4つの型に分けました。ルノーさんの2本は、冒頭で「データがないうちに理論を立てるのは大きな誤り」という言葉を掲げる点では「方法のモデル」です。しかし本論の大部分は、物語の描写を使って供述態度や記憶、ステレオタイプの問題を説明する「例題」にあたります。

面白いのは、その例題の多くが「こう読んではいけない」という反面教師として使われていることです。ゲーム理論の古典がホームズの推論を数理モデルに置き換えたのに対し、ルノーさんはワトスンの描写を、捜査官が陥りがちな読み違いの見本として使っています。同じ「例題」でも、ホームズの使い方はずいぶん違うものです。

おわりに

冒頭で触れたとおり、ルノーさんは『Canadian Holmes』2026年秋号で、同じ供述態度の観点から「踊る人形」を論じています。こちらは会員向けの機関誌なので内容の紹介は控えますが、同号の内容については10月22日の日記でほんの少しだけ触れています。「ボヘミアの醜聞」「赤髪組合」に続いて、なぜ「踊る人形」が選ばれたのか。それを考えながら読んでみたいと思います。

参考文献

正典

  • Arthur Conan Doyle, “A Scandal in Bohemia” (1891); “The Red-Headed League” (1891). 英文はProject Gutenberg版 The Adventures of Sherlock Holmesによります。
  • コナン・ドイル「ボヘミアの醜聞」「赤髪組合」延原謙訳『シャーロック・ホームズの冒険』新潮文庫(CD-ROM版)。

論考

判例

  • R. v. N.S., 2012 SCC 72, [2012] 3 S.C.R. 726.
  • R. v. Batchelor, [2022] O.J. No. 560 (S.C.J.), paras. 50–52(ルノー論考中の引用による).
  • Faulkner v. M.N.R., 2006 TCC 239, paras. 13–14(ルノー論考中の引用による).

法と文学

  • John H. Wigmore, “A List of One Hundred Legal Novels,” Illinois Law Review, vol. 17, 1922, pp. 26–41(ホームズへの言及はp.27、小説を人生の肖像の画廊とする一節はp.31、探偵小説除外の断り書きはp.39).
  • Jorge L. Contreras, “Science Fiction and the Law: A New Wigmorian Bibliography,” Harvard Journal of Sports & Entertainment Law, vol. 13, 2022, p. 65 ff.(WigmoreとWeisbergについてはpp. 66–69).
  • Tristen Wallace, “Expanding Wigmore’s List of 100 Legal Novels,” In Custodia Legis, Law Library of Congress, 9 January 2024.

日本の証拠法

  • 松田岳士「伝聞法則の運用」『刑法雑誌』51巻3号、2012年、351–360頁、とくに353頁。

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